電波塔

21世紀型スノッブを目指すよ!

フォートリエ展を観て、観たあとで

ふた月も前に観た東京ステーションギャラリーでのフォートリエ展について書こうとしながら、出展作品リストさえ持って帰らなかったのを後悔している。いつも、カタログは買わなくとも出展作品リストは持って帰るのだが。何が出展されていたのか記憶をたどる他ない。
調べてみようとして Jean Fautrier と検索をかけて出てくるものは基本的にアンフォルメル(と批評家ミシェル・タピエが呼んだ)様式によるものだ。そんな中で年代順にそれなりの数の作品が観れるサイトとしてはhttp://www.wikiart.org/en/jean-fautrier があった。この中にある具象作品からもいくつかは出展されていたように思える。
彼の初期の作品にはモチーフがあるのだが、ぼぅっとした暗い背景とくっきり分離しない輪郭で描かれるので現実感に乏しい。この頃から既に彼は、眼に映る対象の彼岸を描こうとしていたように見える。人物を描いても静物を描いてもそうだ。吊るされた鳥なんかもそうだ。このモチーフを過去の作家が用いるときには、狩りの勝利の興奮と共にではなかったか?
東京ステーションギャラリーでは順路が三階からスタートするのだが、初期の作品は上階に固まっていた。階下に降りると待っていたのが「人質」シリーズだ。誘拐されたパルティザンの無残な末路を連想させるこの作品群とゴツゴツとした古めかしい煉瓦の壁がそのまま利用されている東京ステーションギャラリーの展自室は合っていた。
その部屋を抜けると後期の作品が待っている。より抽象性を高めるが、「人質」の酷薄さはない。造形的にも落ち着いている。
後期の作品群に混ざって、フォートリエに対するインタヴュー動画「フォートリエ 怒れる者」が上映されていて、彼は具象美術を容赦なく切り捨てていた。自身の初期の作品も含めて━━正直に言うと私はその時彼の具象作品の方が気に入っていたのだが。

はっきり言えば厭な作品ばかり並んだ展覧会だった。彼の作品は陰鬱な色彩で暗い連想を催す作品ばかりだった。それは「不定形」と呼ばれた絵具の塊をキャンパスに盛る手法に至る、前もあとも変わらないことだ。

抽象絵画は結構好きだが、今回は妙にもやもやした。「よくわからない」と思った。よくわからないのは別に悪いことじゃないのだが。そのもやもやはこれを書いている動機の一つでもある。
仕方がないから色々調べているが、なかなかしっくりした記述に出会わない。彼が婚外子であったこと、フォートリエというのは母方の姓であったこと、ゲシュタポに捕まったこと、などはわかった。ふーん。

検索のクエリには工夫の余地があるかもしれない。でもまとまった本を探した方が良さそうに思える。
西洋美術館で「ソフィア王妃芸術センター所蔵
内と外―スペイン・アンフォルメル絵画の二つの『顔』」のカタログが手元にある。それを読み返していると、

戦後の精神的危機、以前の前衛が生み出したユートピア的信条への反感、そして実存主義的、現象学的思考という新しい潮流と結びついた、最終的な拠り所としての個人の復権が、歴史によって賞揚された美学的価値の拒絶と、芸術の実践の再提起をもたらしたのである。
イメージや伝統的な絵画の拒絶という点でアンフォルメルに特有の個性を与えたこの抽象の突然変異は、ある創造的態度を共有しつつも各々に際立った個性を備えた多様な芸術のありかたを提供した。

という記述に出会った。この時代には様々な画家が抽象的な表現を試みたが、共通点と差異があり、恐らく差異の方が大きい。

フォートリエの画面には凝集していく点が見えるように思える。「モノ」がある。「アンフォルメル」とはいうものの。例えそれが現実世界に存在するものをモチーフにしていなかったとしても。そこは彼の個性に思える。

「内と外」で出展されていた作家の一人にタピエスがいる。同じカタログの中で、彼については、

特定のイメージの再現を超え、物質そのものとしての絵画存在を観者に直接、訴えかけるようになったのである。

と書かれてた。ちょうど同じことをフォートリエに関して思っていたところだ。

でもタピエスの作品とフォートリエの作品とは全然違う。基本姿勢しか共通していない。フォートリエが作った「絵画存在」にはタピエスとは比べ物にならない居づらさを感じた。
しかし、きっとそれはフォートリエの表現が成功していたからではないか?