電波塔

21世紀型スノッブを目指すよ!

少し遅れての追悼文

ガボが死んでもうすぐ一月ほどになろうか。
彼との「つながり」といえば、彼の書いたものを――いくぶん熱心にとはいえ――読むというだけのことだ。これまでも、これからも、そこには変化がない。であれば滑稽ですらある感情だろうけれども、肉親が亡くなったようにどこか寂しいという気持ちがある。彼の小説を開いて読んでみても、昔とは何だか感じ方が違う。彼の次回作が読めなくなったことが寂しい? それに関しては私はそれほど期待していなかった。高齢であることと彼の執筆ペースを思えば、もう次の小説など無いだろうと思う方が自然であった。
彼は私にとって最も重大な作家だ。でもこれは 、彼の作品が私にとってはほかの作家の作品を絶して面白い、などといった意味でもないのである。
どう説明したら良いだろうか。ちょっと大げさに響くかもしれないが、彼は私の文学の先生なのだ。
彼の書いた小説は日本語訳のハードカバーなら9冊で収まる。そのそれぞれも別にドストエフスキートルストイほど弩級の長さではない。そのトータルのページ数だけを見れば、そのキャリアの長さや名声に比して少ないように感じられる。けれども、この作品リストはとても壮麗だ。
ガルシア=マルケスといえばマジックリアリズム、そう「百年の孤独」だ、「百年の孤独」を読め、「百年の孤独」を面白いと思わないやつはなんて感性が乏しいのだろう。――こんな風に言われることがある。私には違和感がある。彼のイメージが「百年の孤独」と「魔術的リアリズム」で固定されてしまうのは何と残念なことだろう? 「百年の孤独」が素晴らしい作品であり、「魔術的リアリズム」という言葉が彼の作風のある一面を表している、そのことに関して私は異論をはさまない。けれど、彼が語る世界はマコンドよりもはるかに広大だし、彼の語りの技法を一つのカテゴリーに収めてしまおうというのは無謀な試みに思える。
物語に相応しい構成と文章表現を与えることに彼は腐心した。結果的に非常にラディカルなやり方に至ったこともあるが、彼の作品の力強さはそこにある。
「予告された殺人の記録」において出来事が時系列順に並んで構成されていたら? この殺人事件と社会との間にある絶妙な関係があることは描き出されなかっただろう。「族長の秋」に通常の会話文が並べられていたら? 独裁者の孤独はそれほど鮮烈な印象を与えるものにはならなかっただろう。「百年の孤独」と同じ語り、構成であったなら、これらの作品は成功からほど遠いものだったに違いない。
あらゆる作品がそうなのだ。
すべて読んだからこそ私はそれを知ることができた。
そうしたことで、小説と言う形式が如何に広大な可能性を持っているのかを知れたし、だからきっとその未開の地の探索を試みた作家たちは他にもいるはずだと思えたし、そんな作家たちの作品を読み続けて私は今に至っている。
そのような意味において、ガルシア=マルケスは私にとって偉大でありまた同時に親しみ深い先生だ。先生の訃報に触れて私は悲しい。そして感謝の念は改めてこみあげてくる。