電波塔

21世紀型スノッブを目指すよ!

2014年4月、観たもの

アルバン・ベルク作曲オペラ「ヴォツェック新国立劇場

二十世紀を代表するオペラの一つ。二十五歳以下なら二人で五千円などという破格のプランを知らされたら行かざるを得まい。
何より素晴らしかったのはアンドレアス・クリーゲンブルクの演出! ステージ一面に水が張られ・室内の場面では宙づりになった部屋が前にせり出してくるというセットの特異さにまず圧倒された。観なかった人には「一面に水を張られた」舞台なんて想像がつかないのではないか。水それ自体は透明で無機質であるがゆえに、キャストたちが塗れ・光を照り返す水の質感や表情は美しく神秘的で、どこか恐ろしいものだった。オペラの場面設定自体は基本的には地上なので、言ってしまえば舞台に張られたこの水はある種の隠喩である。けれども、ヴォツェックの死の場面においてのみ、もっと直接的な意味に――つまりヴォツェックが沈んでいく池を表すものへと機能が転換する。オペラ全体を見渡してみれば、ヴォツェックの生きる世界(彼の生きる階級、とした方が良いのかもしれない)全体がその池へと(つまり狂気の末の死へと)連なっているのだ、というメッセージが立ち現れてくるだろう。
ヴォツェック」は狂気に陥る男の物語だけれども、それは作品自体が筋道だっておらず支離滅裂であることは意味しないはずだ。貧困に喘ぐ中で愛情すら失ったことを知ったヴォツェックが発狂することに逃げ道を見つけ出すのは、激しいものだとしても不思議な反応ではない――そういう風に、私はこのオペラからは現実的な感触を受けた。けれどもそういう風には感じない人だっているだろう。仮にこの作品がリアリティを備えていたとしても、それは誰にとってどんな意味を持つのだろう? 本当の貧困層はオペラなんか観ないだろうから。
http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/140405_001608.html

映画「アクト・オブ・キリング」

沸騰――とまで言うには話題にしている層は限定されていたとしても、かなり噂になっていた映画。概要を公式サイトから引用すると――

これが“悪の正体”なのか―――。60年代のインドネシアで密かに行われた100万人規模の大虐殺。その実行者たちは、驚くべきことに、いまも“国民的英雄”として楽しげに暮らしている。映画作家ジョシュア・オッペンハイマーは人権団体の依頼で虐殺の被害者を取材していたが、当局から被害者への接触を禁止され、対象を加害者に変更。彼らが嬉々として過去の行為を再現して見せたのをきっかけに、「では、あなたたち自身で、カメラの前で演じてみませんか」と持ちかけてみた。まるで映画スター気取りで、身振り手振りで殺人の様子を詳細に演じてみせる男たち。しかし、その再演は、彼らにある変化をもたらしていく…。

しかし、「ある変化」などと言うが、こんな書き方をされたらどういう変化が容易に推測がつくというものだろう。
思っていたよりもずっと気分が悪くなる映画だった。それは彼らのやったことに対して? もちろんそうだ、けどそれだけじゃない。同じくらいに残酷なことをやった人たちの話だって映画で観たことがあるけれど、その時よりも後味が悪い。その理由は「残酷さを知りたい」という残酷な欲求が、スクリーンに・映画館いっぱいに満ちていたことだ。
こんな制作手法を、過剰な好奇心の産物と呼ばずして何だろう。結果的に見ればカメラを回すことによってある種の断罪行為が行われたといえるかもしれない。けれど断罪しただけで何かが産まれたのだろうか。巨悪を為した人物がただの爺さんへと萎んでいく様が逐一このフィルムには収められている。それを観て私が覚えたのはただただ虚無感だった。
結局のところ、過剰な好奇心を抱いていたことに関しては、観る側も同様だ。わざわざ好き好んでこんな映画を観に行ったのだから。
「現実を知りたかったんだろう?」そんな製作者の声が聴こえてくるような気がした、ひどい自己嫌悪を植え付けられた。
http://www.aok-movie.com/

映画「アナと雪の女王

「アクト・オブ・キリング」であまりにげんなりしたので、口直しになるようなものを観たいと思って、三日後にはディズニーのアニメ映画を観に行くことにした。わかりやすいシナリオと楽しい音楽・とても美しいCGで出来た、口直しには持ってこいのハッピーな映画だった。
ミュージカル映画というのは歌が主体で進行する以上、シナリオの密度という点ではやっぱり遅れをとってしまう。同じディズニーでも去年公開された「シュガー・ラッシュ」のシナリオの巧妙さとは、比べる方が酷。逆にミュージカルの利点としては台詞をより詩的に扱えることで(「ミュージカルだから」という前提を観客が持つことで可能になる台詞というのはたくさんある)、だからそれを活かしてキャラクターへの共感を誘うというやり方が良いのだろう。Let It Go がばっちり流行ってるのは、エルサを多くの人に対して魅力的なキャラクターに見せることに成功しているということに通じている。
まあ、あんまり難しいことばっかり言いたい訳じゃないんだけどね、こういう映画に関して。こういう映画は楽しめない人なんだって思われたくないから。

「驚くべきリアル」東京都現代美術館

以下二つの現代美術館での展示に関しては本当は会期終了前にこの記事をアップしたかったけれど、そうできなかったのが残念。

スペイン・ラテンアメリカ現代アートということで、ラテンアメリカ文学を愛好している身としては興味を引かれるものがあった。――とはいえ実際のところ展示されていた作品の多様さを前にすると、「スペイン・ラテンアメリカ現代アート」というくくりで十把一絡げに語れるようなことはあまり多くは思い浮かばない。ただ、どこか人を食った発想(例えば架空の美術館のカタログを作ったり、自分を「オフィーリア」に見立てた写真を撮ったり)を感じる作品は多かったように思うし、ドライな感触も共通していたように思う。
どことなく閉塞感を感じさせる MP & MP ロサード(MP and MP Rosado)《野良犬のように》http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=viewphoto&id=429&c=8、夜景と星座との間に感じ取れるある種の類似から着想を得たカルロス・ガライコア(Carlos Garaicoa)《なぜ地はこんなにも自らを天に似せようとするのか(Ⅱ)》http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=viewphoto&id=429&c=6などが特に印象に残った。ホルヘ・マキ(Jorge Macchi)≪血の海(詩)≫は題になっている言葉が含まれる文を新聞から切り出して、広がる血のような形につないだもの。こういう作品を見るとやっぱり治安とかすごいんだろうなあと思わされる。ちょびちょびとスペイン語は勉強しているもののまだまだ全然わからない。作品中のテクストなどを理解できないのは歯がゆかった。

http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/musac.html

「MOTアニュアル 2014 フラグメント」東京都現代美術館

現代の日本の(基本的には若手あるいは中堅の)アーティストから何人かを取り上げるような展示を観た時に、全員が全員に対して興味を引かれるということは珍しい。けれどもこの展覧会はそうだった。

"断片"や"かけら"といった小さな破片を意味する言葉――「フラグメント」。本展に登場する作家たちは、彼らの身の回りにある現実からこぼれ落ちたフラグメントを用いて、独自の世界を築いていきます。市販のプラスチックのパーツを際限なく組み合わせる、トランプカードや消しゴムに緻密な細工を施す、見慣れた風景のイメージを切り取り多層化させる・・・・・作家たちの手法は様々ですが、いずれも世界に溢れる選択肢の中から自分だけのフラグメントを意識的に選び取り、それとの接触を通して世界を捉えなおそうとする姿勢に特徴があります。

というコンセプトの通り、日常とアートの境目を軽やかに超えていくような作品が多く、とても楽しめた。
特に面白いと感じたのは高田安規子・政子や福田尚代の作品。前者は軽石で建造物のミニチュアを作ったりゴムの吸盤を切り子状にしたり、日用品がこんなに姿を変えるのかとはっとさせられた。後者は本や文房具を断片化して再構成して作品にしていたが、言葉の与える印象と様々な方法で変質させられた紙の質感とが交差することで、内省的でありながら訴求力を持っていた。
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/mot2014.html