電波塔

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歴史小説の史実との向き合い方

 先日読んだローラン・ビネの「HHhH――プラハ、1942年」(高橋啓訳)にはいたく感動した。その次に読み始めたのはレイナルド・アレナスの「めくるめく世界」(鼓直/杉山晃訳)だ。これまた強烈な作品で、いま半分くらいまで読んだところだが、非常に楽しめている。
 さて、たまたま同じ時期に買ったこの二冊には共通点が見える。それは、どちらも歴史小説であり、でも通常の歴史小説の語り口を取らなかった、ということだ。最初の三章ずつくらい両作品を読めばそれが判る(ただし私はどちらに関しても最初の一章を読んだだけで買ったので、買った時にはそれに気づかなかった)。

 「HHhH」が題材としているのはナチスの高官ハイドリヒの暗殺作戦だ。構成は、大抵の場合は二ページ以下に収まるくらいの短い章がたくさん連なったものになっている。基本的には「僕は」と語られる、つまり一人称視点だが、章によっては「僕」は出てこない。「僕」は資料を集め、友人と意見を交換し、読者に歴史を語って聴かせる。時々は語ることに没入しきって読み手の前から姿が消える(その没入度合は後半へと進むにつれて段々と高まっていく)……かと思えば、ふっと我に返ったように文章の中に姿を現す。
 例えば、ある章ではハイドリヒの幼年時代についてこのように書かれるが(この章で「僕」は顔を出さない)――

 だが、その夜、ヴァイオリンのレッスンはなく、ラインハルトは学校のことを父親に語ることさえできなかった。帰宅すると、戦争が始まったことを知らされる。
「なぜ戦争なの、パパ?」
「フランスとイギリスがドイツを妬んでいるからだよ」
「どうして妬んでいるの?」
「ドイツのほうが強いからだ」

――その次の章はこんな風に始まり、

 歴史物語においては、過去の死んだページに命を吹き込むという口実のもとに、多少なりとも直接的な証言に基づいて再現されるこうした会話ほど人工的なものはない。

そして次のように締めくくられる。

そして、誤解の無いように言い添えるなら、僕の創作する会話はどれも(そんなに多くはないけれど)芝居の一場面のようなものとなるだろう。いわば現実という大海に注ぐ様式の一滴。

 ここで抜き出したのは最もシニカルな箇所の一つだけれど、随所において章の間にはこのような落差がある。一見すると優柔不断ですらあるこの手法は、しかしながら、著者の誠実さと物語の真実性を読者に印象付けていく。そのようにして至る暗殺作戦の核心的な瞬間の数々は、とても力強い。

 「めくるめく世界」でレイナルド・アレナスが取った手法は更に挑戦的なものだ。この小説は実在した僧侶セルバンド・デ・ミエル師の生涯を描いたものだが、一人称(セルバンド師が語る)・二人称(セルバンド師に呼びかける)・三人称(セルバンド師について語る)によるテキストが混在している。場合によっては全く同じシーンが視点を変えて三度並んだりもする。ところどころでセルバンド師の手記が引用されもするが、幻覚のような文がひっきりなしに現れる。
 最初の章には次のような箇所がある。

司祭に家畜を祝福してもらって、祝福を受けると、家畜は死なないはずだが、どういうわけか死んでしまい、おまけに、母まで死んでしまった。

何て簡単に人が死ぬのだろう! しかし一頁めくればこう書かれている。

 というわけで、私はまたたく間に家に帰り着いたが、そこで待っていてドアを開けてくれた母――頭のてっぺんと両手の十本の指に、火のついたろうそくを立てていた――は、常夜灯のような口で、私に向かってこうわめいた。「さっさとお入り、この悪たれ小僧! さっき先生が来て、お前のことで苦情を言っていったよ。部屋にあがって、じっとしてなさい。今週はもう外に出さないからね」

この二箇所の間に「母」の生死に関しては何らの言及もない。これだけで混乱しそうになるが、この章が終わった直後には、同じ(と思われる)シーンの二人称視点での章が続く。抜き出すと、

 母親はあなたを、戸口で待ちかまえているに違いない。あなたは頭をしっかり押さえている。

 母親がやって来て、あなたの手首を切りとる。そして尋ねる。「誰が、ヤシの樹を引き抜いたの?」「やつだ」と歌っていないサソリたちが、赤っぽい石の下からのそのそ這いだしてきて、答える。

そして更に三人称視点で繰り返される。そこには次のような記述がある。

 というわけで、彼は学校にも通わなかったし、屋根をかすめて飛び去った一羽のゴイサギのあとも追わなかった。ゾウゲヤシの若木も引き抜かなかった。第一、あそこにはそんな樹は生えていない。妹たちにも会わなかった。彼女たちはまだ生まれていなかったのだから。むろん、切られた手首などという馬鹿なものを見たこともなかった……。すべては妄想、ただの妄想に過ぎない……。

 テキストの内容がおおよそ現実からかけ離れていることが明らかな一方で、もはやどこに歪曲があるのか判別がつかない。目の前で記述されているのが事実の歪曲としての小説世界において起きた事件なのか、小説内で起きた事件を述べるその文章に極端なレトリックが施されているのか、読者には全く判らない。対照的に、セルバンド師への熱い共感はくっきりと浮かび上がってくるのだけれど。何だかキュビスムで描かれた絵を眺めているかのような感じがする。

 「史実をどう物語として構成するか」そして「どのような視点から語るか」という歴史小説における(後者は小説一般にだけれど)問題に対して、この二作は個性的な方向から取り組んでいて、それが作品全体の力となっている――つまりは語られる人物、事件を読者に力強く見せつけることに成功している。これほど鮮烈な効果を上げている作品はなかなか無いように思う。歴史小説というジャンルに関して私はそれほど強い関心を持ってきたわけではないのだけれど、他にもこういったものがあれば読んでみたい。歴史小説の史実との向き合い方について、さらに考えを広げてくれるような作品を。

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

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めくるめく世界 (文学の冒険シリーズ)

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