電波塔

21世紀型スノッブを目指すよ!

ジャケット一着で

 先月のことになるけれど、働き始めたことだしちょっと良いのが欲しいなと、ジャケットを買った。それまで持っていたものと言えば、高校生の時に買った安物の哀れなくらい着古されたものが一着と(いや、正確に言うとこれはあまりにみすぼらしかったので少し前に処分していたが)、サイズが合っておらずデザインにもやや癖のある貰い物くらいだった。
 PARCO に行っていろいろと物色していると Journal Standard で気に入るものが、気に入ってかつ手の届く値段のものが見つかったので、それにした。一万二千円だった。
 ジャケットに対して一万二千円というのをどう捉えるかは人によるだろうけれども、貯金も全くない状態で働き始めた私にとっては結構な贅沢だ。それに、これは私が服一枚に対して自分で出した金額としては(つまり高校を卒業する時に親に買ってもらったスーツを除いてという意味で)最高額でもある。
 でもそれとは矛盾するように見えるかもしれないけれど、これは探した中で着たいと思えたジャケットの最低ラインの価格でもある。それまでにもいろいろな店で探してはいたけれど、一万円以下では着たいジャケットを見つけることができなかった。もしも六、七千円くらいで欲しくなるものを探し当てていたら(もう少し幅広く探せば出会うことができたかもしれないとは思う)、学生のうちに買っていただろう。

 良い服は高い。「モテるためには別に凝った服は着なくて良い、デザインは普通で良いから清潔感があってきっちりした服を着れば良い」みたいな言葉を時々見かける。それはきっとそうなのだろう。ただ、まさにそういった服こそちゃんとお金を払わないと手に入らないものだ、と私は思う。ナチュラルメイクがすごく丁寧なメイクなのと同じようなもので、実際のところそれが意味しているのは、一見すると無難な中にも微妙なラインの良さがあって・生地の質が高く・丁寧な縫製がなされている服だということだ。腕の良いデザイナーを雇って、しっかりした生産ラインで作られたものだということだ。しかも欲しい人が多くて値段は下がらないものだということだ(セールでたたき売られている服というのは大体イケていない!)。

 新しいジャケットを着て旧知の友人に会ったら、「えらく服装がまともになりましたね」と言われた。彼はあとでそれに関して「感動した」とまで Twitter に書いていた。また別の友人に会ったら「すごい、パリッとした服を着てる!」と言われた。
 そんなもんだよな、と私は思った。それなりに嬉しくはなったけれど。そんな風に言われるだけのみっともない格好をしていたことがわかる。
 数日後にぼんやりとTwitterのTLを眺めていると、むかし私に向かって「服がダサい」と言ってきたお嬢様が四万円のパジャマを衝動買いしたという投稿があった。
 そんなもんだよな。

 負け惜しみに響くからあまり口には出してこなかったけれど、着ている服の見栄えなんてセンスの問題ではなく費やした金額の問題だろう、基本的には。そういう考えでいる。だって、お金を払えばセンスの良い人たちの作った服が買えるんだから。自分には服のセンスが無いって思っている人は、いままで買ってきたよりも二倍の値段の店で買えば良いんじゃないだろうか。それが出来ないあるいはやりたくないなら、仕方がない。
 「アクト・オブ・キリング」で、プレマン(民兵団)のリーダーがなぜ違法な稼業をやっていたのか、なぜそんなにお金が欲しかったのかについて「良い服を着たかったからだ」と言っていた。その一文は、スクリーンに映る彼が放った言葉で唯一と言える、共感できたものだった。着ているものでどれだけ人が判断されることか。

 随分とシニカルなことを書いてしまった(書きたくなるだけのコンプレックスを抱えてきたのだなあ)。でも私は服屋に行くのが結構好きだし、これからは経済力の許す範囲で良いものを身に着けていたいなあと思っている。
 その方が良い気分になれるから。

追記:
「四万円のパジャマ」というのは間違いでジャケットだし、自分はバイトしてちょっとずつ貯めたお金で買ったのだという訂正を受けた。それは申し訳のない間違いではある。
服装で軽んじられたのは気分の良いことではなかったが、口に出さなくても多かれ少なかれそれはあるのだから、口に出されただけ感謝するべきなのかもしれない。