電波塔

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いわゆる教養

 人から「教養があるね」と言われる程度には私は教養なるものを備えているらしい。このブログでも話題にしているように美術だとか音楽だとか書物だとかに親しんでいることを、それは指しているようだ。そう言ってくる人の態度にはどこか距離がある。このせりふは大体「自分には教養がないから」という言葉とセットになって出てくるのだ。
 逆に、そのことに関して悪言を吐かれることもままあった。年齢を重ねるとともに言われる頻度は減っていったけれども。高校の頃が一番ひどかった。中学や高校のクラスメイトの中には「そんな面白くもないものを読んで」「偉そうにしやがって」「そんな本なんか読んだって何にもならない」などと言ってくる奴らがいたものである。彼らは「何にもならない」ことを一切していなかったのだろうかと私は訝っている。大学に入ってから「似非教養人」呼ばわりされたこともある。彼の考えでは私は見せかけのために「高尚な」ものを知っている「風な」振る舞いをしている、ということらしい。

 「教養」に関してはそういった両側からの態度があるのだけれど、結局この二つの態度は根本的には一緒であるように見える。つまりそういったことを言う人たちの考えでは、

  1. 古典的な文学や芸術に親しむことは「教養」に属するものであり
  2. 「教養」を身につけるために消化しないといけないそれらのものは質的に理解を超えている、あるいは量的に膨大なものであり、
  3. そのために「教養」は身に着けるのが非常に難しいものであり、
  4. それらを身に着けている(身に着けようとする)ことはカッコいいことあるいはカッコつけであり、
  5. そういう風なカッコいいことをすることによって人からの(ただし往々にして発言者自身は含まない)敬意や人気が得られる

のだろうということだ。
 このうちの大半に関して私は疑問を抱いているが、「教養」なる言葉はこのように使われていることの方が多い以上、それは蟷螂の斧と言うべきなのだろう。

 もっとも、私自身もそういう風に考えていた。高校の頃に私はよくドストエフスキーを読んでいた(「よく」と言うのは何回も繰り返し読んでいたという意味ではなくて、長いから必然的に読んでいる時間が多くなるという意味)。読み始めた理由はまさにそういう「教養」を身につけたかったからだ。身についている方がカッコいいと思っていたからだ。でも次第に、読む理由は単に「面白いから」へ変わっていった。なんだって結局そうだ。長い年月親しまれているようなものというのは大体面白いのだ。楽しもうとすれば、楽しみ方を知ろうとすればね。一方で、「面白い」という以上に得をしたことがあっただろうか? あったといえばあったかもしれないけど、大して実感はない。
 人と違うことに楽しみを見出している人間というのは異質だ。そして、異質であることで得ができる人間関係というのは稀だ。「教養」があることがカッコいいなんて誰も本心では思ってはいないのだけれど、「どうもカッコいいものと見なされているらしい」というイメージだけがなぜか共有されている。もっと言うなら、「教養」というのがどんなものか自体みんな本当はよくわかっていないけれど、古き良き時代には「教養人」が存在していたらしい、あるいは現代でも自分たちと交わらない雲の上にはそういう人が住んでいるらしい、となぜか信じている。
 そんな具合なんじゃないのだろうか。