電波塔

21世紀型スノッブを目指すよ!

感性は的、いや敵

 などとつまらないダジャレたモットーを思いついたのは昨日だけれど、前々から実践しようとしていたことである。つまり、文章を書くときに「感」や「性」や「的」といった接尾辞を安易に使わないようにしよう、ということだ。恐らくこんなことは言い古されているのではないかとも思うけれども。
 そうすべきだと考える理由は、一つには不要あるいは誤用であるケースでこれらの接尾辞を付けてしまうことが多いからであり、もう一つには別の表現を考えた方が文章表現として豊かになるからだ。いずれにしても、これらの接尾辞を使ってしまった場合は――心がけているといってもまだついつい書いてしまうので――一歩立ち止まって考えるようにしている。

 先日わけあって読むことになったとある会議の議事録にこんな部分を見つけた。

【位田委員】  細かいことが多いのですが、5点、申し上げたいと思います。
 第1点は、3ページの「はじめに」の一番最後の部分なのですが、「基本的な方向性」とあります。最近、「方向性」という言葉がよく使われるのですけど、「方向」ではないのでしょうか。方向性と方向とどう違うのか、私はちょっとよく分からないのですけど、何となく行政用語で方向性、方向性と言われていて、じゃあ、方向と方向性はどう違うのかなというのはよく分からないのです。これは我々の議論をこういう方向で指針を決めていきましょうという話なので、「方向性」という話ではないのだろうと思います。これが第1点です。

科学技術部会疫学研究に関する倫理指針の見直しに係る専門委員会・臨床研究に関する倫理指針の見直しに係る専門委員会審議会議事録 |厚生労働省より)
これは科学技術部会疫学研究に関する倫理指針の見直しに係る専門委員会・臨床研究に関する倫理指針の見直しに係る専門委員会審議会資料 |厚生労働省の「中間とりまとめ」にある

 本中間取りまとめは、統合指針の具体化に先立ち、その基本的な方向性や考え方を整理したものであり、今後、本中間取りまとめを基に、指針具体化に向けた検討を進めていくこととなる。

という記述を指して言っている。この指摘は全く正しいだろう。接尾辞「性」は「~の性質を持った」と言う意味の語を作る接尾辞であるから、「方向」に「性」をつけることによって「ある物事や人物に、目指すところや向かうところがあるようす」という大辞泉の定義にあるような意味合いになる。だから例えば、落としどころに向かって着々と進展していく実りある議論を指して「方向性のある議論」という使い方なら良いだろう。けれども上記の例では「議論をまとめていく際に向かうところ」といったところが意図であり、「方向を持つ性質」という意味で解釈したら意味が通らないので、単に「方向」とすべきだ。これはまさに、ついついやってしまう誤用の例である。
 「感」に関しては少し微妙なケースが多い。例えば「恐怖」なんていうのは元々感覚的なものなので「恐怖感」なんて語は二重表現であるように思えるけれども、こちらの方がしっくりくる状況もあるように思われる。これに関してはもう少し考えてみたい。昨日投稿した文章にも一度「距離感」と書いた箇所があったけれど、「距離」で良いだろうと思ってあとから直した箇所があった。これなどは趣味の問題でもある。ここで「距離感」と書いたのは物理的な距離のことを指しているのではなくて主観的なものであるから、誤用には当たらないだろう。ただ、「距離」に関しては心理的に感じる隔たりとしての用法も定着しているから不要でもある。これは隠喩表現とも見ることが出来るだろう。そういった表現の方が好ましいというのが私の感覚である。
 一方で優れた効果を持つ用法もある。あるバンドのリハーサルで、演奏を力強く聴かせるための指示をいくつかコンサートマスターが飛ばし、バンドにやらせたあとで、「これくらいのパワー感があればええやろ」と言った。この「感」は良い用法だと私は思った。音楽の「パワー」というのも主観的に感じるものではあると思うけれど、ここで言いたかったことは「実際の音量(これを『パワー』と言い換えられる)を大きく変えなくても、いろいろな工夫をすることでよりパワーを持っている『印象を与える』ことが出来る」ということだからだ。「パワー感」という一語でそういったニュアンスを持って伝わるのでこれは的確だ。

 ……などと考えをつらつらと書いてみたが、この接尾辞の問題に関してはまだまだ考えられることがありそうだ。もっとたくさんの例に基づいて考えるべきでもある。[Q&A] 接尾辞「~性」に関して 【OKWave】のような議論も見つけて面白いと思ったので、また折りがあれば書いてみたい。