電波塔

21世紀型スノッブを目指すよ!

観たもの、2014年5月

新日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会

幸運にも知人から券を譲っていただけた演奏会。指揮者はダニエル・ハーディングで、曲目はブラームス交響曲第二・三番。
ハーディングの指揮するブラームスという意味では以前に一度聴きに行ったことがあって、その時のオーケストラはマーラー室内管弦楽団、演奏したのは交響曲の三番と一番。この時の演奏は私が今まで聴いたオーケストラの演奏でも屈指のものと記憶に残っているから、今回も楽しみに聴きに行った。
ハーディングがドイツ・カンマーフィルとブラームスの第三第四交響曲の録音をしたのはかなり若い時期だけれど、私が二回聴いたブラームスの第三番の演奏でも基本的なテンポ設定、音楽作りの方向性は変わっていなかった。つまり、比較的速いテンポ設定を取り、編成を抑えたオーケストラによってブラームスならではの各声部の動きの積み重ねを明確に聴かせるというアプローチ。このアプローチに対して私は非常に好感を持っている。そして、ありきたりな表現をするなら「円熟してきた」というのか、レコーディングに比べれば実演で触れた演奏の歌わせ方はずっと柔らかで、テンポの揺らし方も落ち着いたものになっていた。
弱音を大きく落としていたりフレーズの終わりの間を大きく取ったり、楽曲全体の本当の頂点まで強奏をわざと抑えたり、そういう面はちょっとあざとい感じもした。でもあざといと思う一方でしっかり感動させられていて、やっぱりこの人は凄い。指先一本まで使って音楽を表現するボディコントロールも観ているだけで惚れ惚れする。
ただ、オーケストラに関して言うと……マーラー室内管に比べると見劣りするところがあるのは否めないなあ……ということも正直に言えば思ってしまった。

魅惑のニッポン木版画 横浜美術館にて

この展覧会に関しては先日も記事を書いた。
http://ngrblog.hatenablog.com/entry/2014/05/17/112103
実はこれをまとめた後でもう一度観に行った。この次に書くコーロ・フォレスタの演奏会を聴くためにみなとみらいまで行くことになったからで、演奏会の前後にまた軽く観ることにしたのだ。そうすると、出展しておられた桐月さんのトークが幸運にも聴けた。
桐月さんは「木版画というフォーマットに至った理由は」と訊かれて、「絵画とか石版画などの真っ白なところから自分で何もかも描かないといけないものだと何をしていいのかわからなくなってしまうけれども、木版画だと木目があるから何かできる気になれた」、といった趣旨のことを述べておられた。彼女の作品はまた観たいし、もっと言えば手元に欲しいくらい。

コーロ・フォレスタ定期演奏会

このコーロ・フォレスタはアマチュアの合唱団体だけれど、音楽監督として飯森範親氏が指導している。それもあって、この演奏会では飯森範親氏が同じく音楽監督を務める山形交響楽団が伴奏を! 演奏した曲はベートーヴェン晩年の大作、荘厳ミサ曲。
山響は金管楽器ピリオド楽器を導入しているという話だから、トランペット吹きとして興味を持っていたし、しかも大好きな荘厳ミサ曲を聴けるということで、楽しみな演奏会だった。
コーロ・フォレスタには最初の和音からとてもクリアーな響きで驚かされたし、山形交響楽団もこれまた素晴らしい音色のオーケストラだった。殊に楽しみにしていたピリオド楽器金管セクション・ティンパニは、期待以上にというと失礼だろうか、品格のあるこなれた演奏を聴かせてくれた。
飯森氏のアプローチはこういうオーケストラを指揮している「にしては」というか、幾分重いテンポ設定と表情付けだった(ノリントンとかジンマンとかと比べてしまうからね)。
オーケストラの編成が小さ目だったのもあって合唱が少し強いかなあとか、流石に大曲だからちょっと疲れてくるなあとか、そんなことも思ったけれども、良い演奏会だった。
荘厳ミサ曲は録音でよく聴いてる割りには歌詞をろくに追わずに聴いていたので、歌詞を見ながら聴くといろいろ発見があった。真剣な聴き手には今更なことなんだろうなあと思うけれども……。ベートーヴェン典礼文のテキストの内容をはっきりと音楽に反映していて、それは典礼のためとして考えるならばいささか扇情的なくらいだ。私にはどうも、特定の信仰の理念というよりはもっと普遍的に人間が抱く感情の音楽化を目指した(もちろんそこはベートーヴェンだから、緊密な楽曲構成の中で実現することを前提として)んじゃないかなあと思えた。その辺りは専門家の間でも諸説あるようだし、研究論文などを読んでみるのも良さそうだ。

アルテミス弦楽四重奏団

1989年に結成されたこのドイツの団体は、現役の弦楽四重奏団の中ではもうベテランの部類に入ると言えそう。曲目はブラームスの op. 51-1、クルターグの op. 28、ベートーヴェンの op.131 と、ロマン派も前衛もやったりますぜといったプログラム。「メンバーが変わって初来日」とプログラムに書かれていたけれど、実のところそんなに活動を追ってきた団体ではないので昔と比べてどうこうということはあまり言えない。
第一ヴァイオリンが引き倒すのじゃなくて低音の支えの上に音楽を作るタイプで、流石に落ち着いた、安心して聴けるアンサンブルだった。ハーモニーの聴かせ方やヴィブラート、ダイナミクスの作り方、何をとっても緻密な計算の上で実現しているなあという印象を持った。
クルターグに私はとても感銘を受けたのだけれど、こういう曲は例によって一部の客だけが盛り上がる。楽曲の魅力を伝える整然とした演奏をしていたけれど、どう提示されたって嫌いな人は嫌いだろうから、仕方ないか。
彼らは立って演奏していて、そういう弦楽四重奏団は実演で初めて観た。他にもそういう団体があった気はするが。視覚的にも音楽を伝えようという意味ではこちらの方が良いのかも。

映画「闇のあとの光」

メキシコの映画監督カルロス・レイガダスの日本初公開作品。
予告編を観て「何だかよくわからないけど観てみたい」と思わされたので観に行ったが、「何だかよくわからないけど凄かった気がする」という感想である。
公開初日に観に行ったところ、レイガダス監督自身のメッセージ映像も観れるという特典付きだった。「日本と私の国とは全然違うけれど何かは伝わるだろう、それは正確な理解じゃないけれど私は自分の作品を自由に解釈してほしい」という、まぁありきたりな発言を彼はしていた。正確にどころか全く理解できた気がしないが、気楽に自由に楽しめばよいと製作者が言っているなら安心できるというものだ。
「幸福に見えた家族を不幸が襲う」という(どんな不幸かまでは書かないことにする)十五秒程度で説明できるあらすじだけれど、それがじっくり二時間で展開されて、しかも途中で不可解なシーンがいくつも挿入されるものだから、物語にどれほどの重要さがあるのかはピンと来ない。時間的に十年くらい後と思しいシーンも挿入されたりするけど、どうも各シーンがストーリーに対して明確な意味を持って結びつかない。結局人生だっていろんなシーンがあるけどほんとは意味なんてわからない、ということなんだろうか? どうしてかわからないけれど、この映画は何の気のない日常風景を写す映像からも強い暴力が感じられた。それは例えば車で走っているだけのシーンだったりフットボールのシーンだったり……。
ただ確かなことには、映像自体の魅力だけでも最後まで観れてしまう。それに関しては Youtube を張り付けた方がわかりよいかと思う。

映画『闇のあとの光』予告編 - YouTube
子供の頃に感じた暗やみとか雷とかへの恐怖感を思い出させてくれるオープニングのシーンだけでも、劇場で観る価値はあった。