電波塔

21世紀型スノッブを目指すよ!

ドキュメンタリー映画の悦楽

カンボジアの映画監督リティ・パニュによる、クメール・ルージュ政治犯収容所に取材したドキュメンタリー映画「S21 クメール・ルージュの虐殺者たち」を観に行ってきた。ここで内容にそれほど深く踏み込むつもりはないが、2万人の収容者のうち生き残ったのは数人だけの「生きては出られない」この収容所のかつての看守と囚人との双方を再びここで対話させる、というやり方で作られた映画だ。

映画は最近とみによく観るようになったけれども、内訳としてドキュメンタリー映画は多い━━しかもそのうちの大半はおぞましい事件、理不尽な政治状況、戦争、虐殺……を扱ったものだ。

どうしてこんなものばっかり。
私には問題意識があるのだ。そう、現代の日本のような平和な世の中は、これまでの人々が、遠くの国で生きる人々が血を流して闘ったから成り立っているのだ。それを忘れてはいけない、見つめなきゃいけない。
……そういえば聞こえは良い。でもそれは嘘だ。いや、完全に嘘というわけではない。ただやっぱり、それだけだというのは本当ではない。

本当は? 悲惨や理不尽を描いた作品には独特な快感があるからだ……特にそれが現実に起きた事件であれば。
悲惨を作り出すのは人間である。人間が如何に簡単に「悪」へと堕ち、如何にそれを受け入れ、如何に冷厳に実行するか。私は人間をそれほど見上げた存在だとは思っていないから、そのように「人間性」の皮を剥ぎ取られた姿を見せつけられると思うのだ。ほらね、やっぱりね、……。
一方で、悲惨に立ち向かうのも人間である。さっき書いたことと矛盾するようだが、人間は偉大になりうると思っている。しかし、もちろんそんな人間は多くはないのだ。多くの人間たちの弱さと並べると彼らの姿は神話の世界の住人のようだ。真に感動的である。自分が同じ立場であれば到底出来ないような行いを追体験するのは快い。彼らが立ち向かう困難が大きければ大きいほどに。しかも私がすることといえば劇場への入館料を払って椅子に座り続けることだけ、というお手軽さだ。
そして、全てを見終わった瞬間の安堵。周囲の平和への、街を弾丸が飛び交わないことへの、公権力が迫害してこないことへの。

はしたないことと思うが、これらをとても快く感じてしまう。一種のマゾヒズムでもあるように思われるが。言葉よりも強く訴えかけてくる風景や人物の表情をずっと大写しにし続ける、このドキュメンタリー映画というスタイルほど、強くこの種の刺激を与えてくれるものがあるだろうか?

「S21」を見終えてアパートに帰った私は部屋の窓に鉄条網がかかっていないことを確認し、ぼんやりと愉悦に浸った。