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レトリックとロジック、またはどうしてみんな国語が嫌いなのか

 国語ほど嫌われている科目があるだろうか(国語で習った反語表現というやつだ)。
 数学も同じくらい嫌われているかもしれないけれど、数学が嫌いな人の大半は、いや半分くらいは、点数が取れなくて苦手意識を持っているだけで数学を軽蔑している訳ではない……望むらくは(世の中に「二次方程式などは社会へ出て何の役にも立たないので、このようなものは追放すべきだ」などと仰る小説家もいることは知っているけれども)。それに対して、国語が嫌いな人というのは基本的に国語という科目を馬鹿にしきっていて、小学校の科目で言えば道徳の次くらいに無価値な時間だと思っている。
 一方で、国語は大事だと力説する人もまた多い。「英語力よりも国語力が大事だ」とか、「あいつには国語力が無い」と罵倒したりとか。でも、「国語力」などという言葉が使われることにこそ、国語という科目にまつわる問題が露呈しているのではないか。

 国語、特に現代文の時間に扱われる内容というのは以下のように分類できるだろう。

  1. 日本語の文法、語彙
  2. 修辞技法(レトリック)
  3. 論理的な読解能力(ロジック)
  4. 作文
  5. 名文の観賞

 1.はこの国で使われる日本語という言語の基本的な能力。2.は文章表現の幅を広げる技法。3.は文章の構成要素同士の関連性を把握する技術。4.はそれらの発信面での能力。5.は何らかの理由で小学生が読む価値のあるとされた文章を読み、その内容および様式について知ること。
 作文が嫌われ者なのはよくわかっているが(どうして自由に書けって言われた内容に関してごちゃごちゃ言われないといけないんだ!)、ここでは措いておく。そのうえで私の考えを述べると、国語が嫌われる理由というのはレトリックとロジックとが同じ時間で扱われていることに端を発する。その結果として、文章を読み書きする際にこの二つの観点をどう扱うべきかをきちんと理解しないまま子どもの学年は上がっていき、場合によってはよくわからないまま大人になってしまう。

 優れた修辞と優れた論理とは常に矛盾するわけではないけれど、相反する面は厳然としてある。文章を巧みに飾れば正確な意味の伝達から離れてしまうことがあり、正確さを追及すると文章表現の味わいを損ないうる。それでも、レトリックとロジックはどちらも文章に関するものだからと、両者は区別されないまま――というよりも、区別が生徒には伝わらないまま――同じ国語の時間に詰め込まれている。

 センター試験を筆頭に、国語の問題というのは大抵、論説文に関する問題と小説に関するものとで構成される。そしてそれぞれの大問ごとの点数ばかりが見えてしまう。それでついつい「現実の物事に関する考えを述べる論説文を読む能力」と「空想の世界での物語を綴る小説を読む能力」という二つが問われているのだと思わされてしまいがちだけれど、そうじゃない。問われているのはどちらにおいても修辞技法の理解と論理展開を読み解く能力となのであって、重要なのは文章のジャンルが変わってもその二つを運用できるかということだ。もしそれが学術論文なのであれば意味の伝達を損なうような種類のレトリックは排され、詩歌ならば多少のロジックの欠如は問題にならない。しかし国語の問題で扱われる論説文というのは厳密な学術論文ではないし、小説の方も無秩序を目指すポストモダン文学作品から出題されたりはしない。よって、ウエイトの差はあれ、双方において凝った修辞があり、しっかりした論理的な構成がある。言い換えれば、どちらの文章スタイルの読解に関してもレトリックとロジックとの能力が必要になる。もっと言うと、二つの側面から得られた理解を総合する能力もだ。
 どうしてそういうことを問題にしているのか、それを国語嫌い量産の原因だと私が考えるのはなぜか。それは「論理的な」論説で修辞技法に関する問題が出たり、「感情的な」小説に関して論理読解問題が出たりした時に戸惑ってしまう人が多いからだ。論説文の中でちょっと意味不明瞭な比喩表現の用いられる箇所があったら、決まって傍線が引いてあり、「これは何を意味しているか」などと問われる。これはレトリックへの理解を問う問題で、様々な修辞技法に関して知っていればある種のパターンマッチングで解ける。でも「どうしてそうなるのか」という文章中の根拠は得てして希薄だ。小説の方では登場人物の何かの行動の描写に傍線が引かれていて「この時の主人公の心情を答えよ」という、本当にみんな大嫌いなあの手の問題が出る。これはロジックを問うているので、文章中から手掛かりとなる記述を見出し、それらの関係に基づいて正解を導く必要がある。出題者が間抜けでなければ(残念ながらそういうこともある)正解のための手掛かりが文章中にきちんと用意されている。けれども、「論理的であるはずの」論説文について美学的な見地から解く問題が出題されたり、「感情を述べるはずの」小説を自分の感情に基づいて解いたら減点されたりすることに対して、たいていの人は混乱して腹を立ててしまう(前者に憤る人たちに、学術論文を読むという安寧の時が早く訪れんことを)。

 国語という科目で問われている能力にはレトリックとロジックという異なる観点に立脚するものが含まれており、またそれらを適切に発揮することが要求されている。でも、だれの責任かは措いておいて、そういう科目だったんだと解らないうちに、解らないと怒りながら、多くの人が学校を卒業してしまう。それでいて、国語力だ、国語力だ、とやかましく言う人たちは後を絶たない。ロジックに関する能力を指して「国語力」と言われているのを聴くと残念な気分になるし、国語の点数が悪かったから自分には文章表現を味わう能力が無いんだとばかりに言われてもやっぱり残念な気分になる。

 でもね。文章を読むにしても書くにしても、レトリックとロジックという二つの軸があるということを意識すればずっと面白くなる。そして実は、そういう二つの軸を意識してもう一度整理すれば、国語の時間に習ったことは案外捨てたもんでもないんじゃなかろうか? 文章表現に関わる本を何冊か読んでから、私はそう考えるようになった。