電波塔

21世紀型スノッブを目指すよ!

優雅な生活が最高の復讐

そういうタイトルの本があったな。読んだ本のタイトルすら忘れるのだが読んでいないのにこの本のタイトルは覚えている。あらすじすら知らない(から今調べたところだ……画家の夫妻を題材にとったノンフィクションらしい)というのに。

何となく私は SNS だのに自慢げなことを書きたくなることが多い。いま自分がどんな立派な仕事をしているのか、どんな美味しそうなものを飲み食いしているか、どんなものを見たか、どんな楽しそうな趣味を持っているか、どんな優れた人々と交流しているか、――よくよく見れば大したものでないとしても、精を尽くして飾り付けて語ったならば相応に輝いて見えもする、そのような現状であるとは思っている。時々そのように語ろうと焦がれる――いや、正直になるべきで、私はそういうことを時々ひけらかしている。単にそうしようと思った時の全てを表に出していないだけのことだ。
そのような欲求が私にあるのは生来浅ましい人間だということもあるのだろうけれども、いろんなところで低い扱いを受けてきたコンプレックスが染みついてしまっていて、そのせいで無意味に威嚇しようとしていることが多いのだ、というように自己分析している。小学校の部活で、中学校で、あるいは大学のサークルで、私はとてもイケていない奴として扱われていた。それぞれに関して理由のない話ではなかったのだけれども、「イケていないヤツ」というのは見えない焼印のようなもので、一度押されてしまった人間に対しては、あらゆる不当な扱いをコミュニティ内の多くの人間から受けることが許されてしまう。大学のサークルが本当にひどかった。何もかも否定して笑いものにして良い、そういう対象にされていた。私はずっと見返したいと思っていた。

そういう扱いを受ける場に居続ける必要はなかったのだし、むしろ避けるべきだった。本当の意味でちゃんと能力だとか人間性だとかを見据えて評価するなんてめんどくさいことを基本的に人間は他人に対してしない(誰もが誰に対してもそうしない、と言いたいのではない。そうするだけの興味を払えるキャパシティは誰にも限られている、ということである)のであって、一度こういう人間だと解釈してしまったならそのあと評価を変えたりするような几帳面なことは期待できないのだ。集団としての他人の評価という場合はさらに同化圧力も加わるので、一度決まった身分を覆そうとするのは基本的に不毛な戦いになる。

私はいま、私を否定するような人間とは付き合っていない。これは耳触りの良いことを言う人間とだけ付き合いたいという訳ではない。何かおかしいことについておかしいと言うことは根本的に人間性を下に見ることとは異なるのであって、仮に時々正鵠を射たことを言ってくることがあったとしても、後者の態度で向かってくる人間との関係は消耗することの方が多く価値に乏しい。

要するに、時々コンプレックスに苛まれて何か尊大なことを SNS の類に書いたところで、私が殴りつけたいと思ってきたような相手のところに伝わりなんかしないし、逆にそれを見るのは基本的に、もっと良好な関係を結びたい人々だ。書いて何になろう。落ち着いて考えてみれば、私にコンプレックスを植え付けた連中に届けたいのかすら怪しいものだ。

充実した気分でいるならそれ自体を肯定すればよく、人に告げる必要も別にないはずだから、だから私が何か自慢げなことを書きそうになった時にはただ――「優雅な生活が最高の復讐」と自分に向かって唱えるようにしていきたい。この言葉はもう少しカラッとしたニュアンスの言葉らしいから、カラッと唱えられる日が来ればなお良い。