電波塔

21世紀型スノッブを目指すよ!

モネの眼を、私の眼で?

国立西洋美術館×ポーラ美術館 モネ、風景をみる眼―19世紀フランス風景画の革新」に行ってきました。やはりモネは人気があって、会期終了も近づいているとはいえ、平日の午前に行ったというのに大層な人混みでした。
数点の個人蔵を除けば出展作品は全て、展覧会の名前に入っている両美術館からのもので、国内のコレクションだけでこれだけ並べることが出来るのか、という感慨に耽りました。軸足はモネに置きつつもバルビゾン派から新印象主義に至るフランス絵画の変遷を概観させるような展示になっていて、それは展覧会の副題「19世紀フランス風景画の革新」を納得させられました。ただ、展示順、各部屋のカテゴライズの方法はどうにも意図が少しわかりづらかった。もっとも、(人混みが激しかったのと、その次に別の予定があったのとにより)私はかなり飛ばし飛ばし観たので、もう少し注意深く観れば違ったのかもしれませんが。

特に興味をそそられた作品をいくつか。

セザンヌ「オーヴェール=シュル=オワーズの藁葺きの家」
http://www.polamuseum.or.jp/collection/p08-0078/
後にはポスト印象派の代表とみなされるようになるセザンヌの、印象主義時代の作品。

ウジェーヌ・ブーダン「トルーヴィルの浜」
http://collection.nmwa.go.jp/P.1985-0001.html
モネに最も大きな影響を与えた画家の一人であるブーダンの作品はいくつか展示されていますが、中でも最も規模の大きい作品。

クロード・モネ「花咲く堤、アルジャントゥイユ」
http://www.polamuseum.or.jp/collection/006-0467/

フィンセント・ファン・ゴッホ「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」
http://www.polamuseum.or.jp/collection/002-0011/
印象派の影響の色濃い明るい色彩で描かれたゴッホの作品。

カミーユピサロ「エラニーの花咲く梨の木、朝」
ピサロの手になる点描技法の作品。モネがこの技法で制作することは無かった一方で、印象派の最長老ピサロはこの技法による完成度の高い作品を制作しています(後には用いなくなりますが)。

クロード・モネ「波立つプールヴィルの海」
http://collection.nmwa.go.jp/P.1959-0149.html
この年代のモネとしては比較的薄い塗りの、荒い印象を与える作品。波の表現が特に面白いと思います。

ジャン=バティスト=カミーユ・コロー「ナポリの浜の思い出」
http://www.nmwa.go.jp/jp/collection/1970-0003.html
モネの先輩格のコローの作品も何点かありましたが、中でも最も印象に残ったもの。柔らかい光の描かれた叙情的な作品。

クロード・モネ「睡蓮」
http://www.nmwa.go.jp/jp/collection/1959-0151.html
言わずと知れた連作群の中の一作。今回の展示の中で最大の作品です。

クロード・モネ「黄色いアイリス」
http://collection.nmwa.go.jp/P.1986-0002.html
深く重ね塗られた全体の空間の中にさっと浮き立つように書かれた花弁の表現が印象的でした。

特に後期のモネの作品などは太さや粗さの異なる様々な筆触が執念深く幾重にも重ねられて制作されていますから、実物の持つインパクトというのは非常に大きいものです。
この時期の風景絵画の歴史はやはり面白いですね。今回の展示でカバーされている範囲でいうとスーラとシニャックが最も先鋭的な画家と呼べそうですが、彼らの用いた点描技法からまた大きくその後の絵画の世界が広がっていくことを昨年の新美術館の展覧会で観せられていたので、なおさら興味深く思いながら観てきました。

Python のリスト内包表記とラムダ式でいくつも関数を生成すると

初投稿のプログラミング関係のエントリ.リストの中の要素に応じて動作の変わる関数のリストを作りたいなあということがあって,それでちょっと引っかかったのでメモ.
つまり大雑把に言うと

>>> fs = [lambda a: x + a for x in range(5)]

みたいに書いて,ある引数を与えた際にそれぞにれ0,1,...4を足し合わせるような関数のリストを作りたかった.
でも実際にこれを動かしてみると

>>> [f(0) for f in fs]
[4, 4, 4, 4, 4]

となる.全部range(5)の最後の要素で評価されちゃってて当然これは嬉しくない.
ここでfsの中身自体を見てみるとそれぞれ異なるアドレスの関数を指している一方,xの値はリストを作ったあとでは4になってる.ということ で,Pytohn 2.x系のリスト内包表記中の変数が新しいスコープに作成されないこととPython の lambda式の中の引数以外の変数が実際に使われたタイミングで評価されることとが組み合わさって,どうもこういうことになっているらしい.
解決策として一番簡単なのは[]を()に変える,つまりリスト内包表記の代わりにジェネレータ式を用いること.ジェネレータ式なら新しい関数が作られるタイミングで評価されるからこういう問題は生じない.

>>> fs = (lambda a: x + a for x in xrange(5))
>>> [f(0) for f in fs]
[0, 1, 2, 3, 4]

別の手としてはfunctools.partialを使うことで,partialオブジェクトは生成時に変数が評価されるみたいなので大丈夫(まどろっこしいコードだけどあくまで例示ということでご容赦).

>>> import functools
>>> fs = [functools.partial(lambda x, a: x + a, i) for i in range(5)]
>>> [f(0) for f in fs]
[0, 1, 2, 3, 4]

で,一変数だとぶっちゃけこんな書き方嬉しくないけれど,関数に渡す変数が増えてくるとこういう書き方は俄然旨味が出ると思うんですね.つまり,

for p1 in params1:
    for p2 in params2:
        for p3 in params3:
            func(p1, p2, p3)

より

for f in (lambda : func(p1, p2, p3)
          for p1 in params1
          for p2 in params2
          for p3 in params3):
    f()

の方がクールかなあなんて,……そうでもないかも.元々どうしてこういう問題にぶつかったのかっていうと上のような処理をしようとしたからなのですが.
Python 3.xだとリスト内包表記の変数スコープが変わったようだし大丈夫なんじゃないか,と思ってるけど手元のマシンに入れてなくて確認してない.上記の挙動は Python 2.7.2 でのもの.

格子越しに、女傑絵師の目越しに、吉原を覗く

葛飾応為の代表作である「吉原格子先之図」が原宿にある浮世絵太田記念美術館にて公開されているので、観に行ってきた。彼女は葛飾北斎の末娘で、美人絵に関しては北斎が「自分よりうまい」と評したほどの人物であった。
「吉原格子先之図」は艶やかな色彩感と巧みな明暗法がとても特徴的で、遊郭の様子が遮る格子の隙間から漏れてくるのみであったり、人物の多くが逆光で暗い影として描かれたりする点もまた想像力を掻き立てていく、そのような名品である――というのはデジタルの画像からも見て取れることだ。ずっとこれは拝みたかった絵だ。

この展示は思ったよりも知られていたようだ。この絵の展示の周りには長い列ができていて、解説文の「彼女の名は一部の美術ファンの間にのみ知られている」という文に何だか皮肉すら感じてしまった。後ろに並んでいる人がいると、やっぱりちょっと遠慮してしまって、落ち着いて見れず、何だか悔しい。思ったよりも小さな絵だったし油彩画のように生々しく筆触が残っている訳でもないこともあって、実物に触れたことによる印象の変化というものはそれほど格別ではない。ただ、この絵にそそり立たせられる、描かれた遊郭を覗き見たいという感情は、少しだけ、より狂おしく感じさせられた。
葛飾応為はそもそも点数も多くないし、彼女の作品だけで展覧会という訳にはなかなかいかないようだ。そこで、この作品の特徴をなしている明暗法は他の浮世絵作品においてはどのように表現されていたのか、それをあぶり出していこうという意図に従って他の出展作品は展示されていた。

面白い、流石に浮世絵専門美術館の力を感じさせるキュレーション。国芳と広重の作品を軸に、浮世絵での宵闇や光の表現の実例に触れていく。ただ夜景を描くというだけでなく、夜を背景とした美人画というものも多かった。多くの作品においては、光を正確に捉えるというよりは、「如何に光の違いがあることを感じさせるか」というデフォルメ表現の工夫に重きが置かれているようだった。広重などの美人画はかなり変形を施して流麗な(着物の中に人が入っているように見えない!)ラインを描いていて、それもまた、応為の版本の正確な人体のデッサンにもとづいていることとは対照的に思えた。
順路の最後におかれるのは小林清親ら、明治に入ってからの絵師たちの手によるもの。西洋画の影響も指摘されているが、非常に練られた夜景の表現が見られた。明暗法というと西洋画ではバロック期に急激に発達していったものというイメージなのだけれども、そういう発展の差には画材による差異も大きいのかしら? と勘ぐっている。

休日トランペッターのための練習方法

学生時代に一緒に演奏してきた同世代の友人達も社会人であったり大学院生であったりになってきて、そうでなくても社会人団体にいると「練習時間が取 れないからどんどん下手になる……」とぼやく人は多い。私も週末くらいしか楽器をちゃんと吹かない日曜音楽家な訳だが、防音室のある部屋に住んでなくて も出来るようなエクササイズを色々と考えついたのでそういうものを実践するようにしている。実感としては平日はそういうエクササイズ+週末に吹くというくらいでも下手にならないし、むしろ上達できていると思う(ああもちろん、趣味として楽しむ範囲での話)から、「工夫のしようはあるはず!」と考えている。もちろんちゃんと楽器が吹けるならそれに越したことは無いけれども。

誰かの役に立てば良いなあと思いつつ、書いていってみよう(上手くならなかった!と言われても責任は取れないけれど)。

ブレスのエクササイズ
ブレスは音を生み出す原動力だからとても大事。他の管楽器はお遊びでしか触ったことがないけれども、トランペットは管楽器の中でも強い呼気が要求されるように思う。ブラス・ロックのホーン・セクションで演奏したり、ビッグバンドでリードトランペットを担当するなら特に。

普通に生活しているだけだと楽器を吹く時に要求されるような呼吸能力はどんどん鈍っていってしまう。でも呼吸能力のエクササイズは楽器を使わなくても出来る。そういったことをやっていれば、一週間楽器を触らなかったとしても楽器を吹く時に息の入りがさほどおかしくはならない。それどころか、人によってはただぼんやり楽器を吹くよりも奏法にいい影響を及ぼすかもしれない。私の師匠はブレスを鍛えることの重要性を強く説いていて、レッスンではほとんど楽器を持たずにブレスのエクササイズをさせているくらいだったけれども、結果的に随分と私の吹き方は良くなったように思う。
さて、重要だと書いておいて何だが、呼吸エクササイズについてはここによくまとまっているものがあるので丸投げする。エリック宮城氏が「ブラステクニックガイド」で触れていた本。英語だけど。でもタダでネットで読めるのだから素晴らしい時代である。

ヨガ行者が実践する呼吸が如何に優れているかについてたくさんの御託有り難いお言葉が書かれているけれども、ヨガマスターではなくトランペットマスターを目指す人々にとって有り難いことが書かれているのはVII・VIII・ XI章辺り。XI章にある Walking Exercise なんかはクラウド・ゴードン門下のメニューに入っていたものだと記憶している。このメニューは通勤・通学途中に多少なりとも歩くならば出来る。

小さいアパチュアを作る練習
トランペットを演奏する時には唇の開き具合、つまりアパチュアが細かく調節されている。この調節には唇周辺のいろいろな筋肉が動員されるが、ぼんやりしているとやはりこの調節能力が衰えてしまう。

そこで、「調節」と言うには少し単純だけれども、可能な限り小さなアパチュアを作る、ということを練習する。目指すところとしては空気で出来た糸が口から出て行くような感覚。高音域の拡張/維持に役立つ。

ある程度小さなアパチュアを維持したまま息の流量をいろいろに変えていくというのも良い。アパチュアは口の周りの筋肉と息の流れが拮抗して出来るから、息の流量を変えながらアパチュアのサイズを維持するには唇周りの筋肉の微妙な力加減が必要になる。

唇の緊張を強くするとリップが振動するが、それは目指す必要も避ける必要も無いだろう。実際に演奏する時にはマウスピースによるプレスが加わるからだ。小さなアパチュアを作れるようになったと思ったら、楽器でしっかりプレスしつつ同じようにやってみると、とても楽ちんに(とても小さい音だけれど)高い音が出ると思う。ほそーい息であれば大した音は鳴らないから、布団くらい被せれば十分なミュートが出来る。

"p" 練習
閉じた状態の唇に息を送ると、唇が離れる瞬間に "p" という音が鳴る。「唇を閉じておく→息を送る→唇が離れる」というこの一連の動作は明瞭で正確な発音を得るためには重要。楽器なしでこの動作を実践するのも綺麗なアタックを得るための練習になる。

そんなの簡単? もちろん、ただ「プッ」というのは別に難しいことではない。でも例えば、非常に弱い息でも思ったタイミングで発音したり、強い息でも「ブプッ」とかブレないようにするのは多少の注意が必要になるはず。
そういうことを踏まえると結構高度なエクササイズが出来る、つまり「狙ったアパチュアの大きさで、狙った息の流量で、狙ったタイミングで」唇が離れて息の通り道が生じるようにする。さらにタンギングも付けて、ちゃんと反応するか試してみたり(舌に意識が行くと他の部分に妙な力が入ったりするかもしれない)。
「狙ったとおりに出来る」というのが重要で、そうすると楽器を持った時に出る音と体の動きを結びつけていくのが容易になる。実際に楽器を持った時にアパチュアの 大きさや息の流量に対する出る音の関係をよく覚えておけば、楽器なしでも体の状態をうまく「エミュレート」出来るようになるはず。

 

まだあるけれど今日はこれくらいで。

これらのエクササイズは自分の経験や教わったことや教本などを自分なりに消化したもの――というと聴こえは良いが、いろいろパクってごちゃ混ぜにしただけとも言える。効果を感じたのは確かだけれども、こうした内容を元に他人にレッスンをつけたりした訳ではないから、他の人たちにとっても効果があるのかわからない。その人のレベルというか、抱えている問題や伸ばしたい演奏スキルにもよるだろうし。

無責任な言い方になるけれど、正直に言えば効果が上がるのか興味がある。なので何らかのフィードバックがもらえると嬉しい。良い効果が上がったというお知らせならなおのこと嬉しい。

Divitionism!

ポスターを観た時からずっと行きたかった展覧会、新国立美術館で開かれている「印象派を超えて 点描の画家たち スーラ、ゴッホからモンドリアンまで」(http://km2013.jp/)に赴いてきました。表題に示された三人はいずれも好きな画家でしたし、彼らを中心とした美術の流れを「点描」という一つの観点から捉えようというコンセプトも興味深く感じられましたから、とても楽しみにしていたのです。
実際に鑑賞してきた後でこの展覧会に関して言いたいことは何より、「近代絵画に敷居の高さを感じる人は是非とも行ってきて欲しい!」ということです。スーラとシニャックによる分割主義の実践がまず提示され、様々な画家たちが影響を受け・消化し・あるいは脱却していく様を辿り、そして究極の帰結としてモンドリアンを位置づける。逆に言うならば、モンドリアンの描く単色の矩形を、万人を魅了する印象主義の柔らかな光の元に着地させる。この展覧会は、注意深く選ばれ・並べられた一級の作品群が示すそのような道筋を辿っていくエキサイティングな美術史の旅です。
この展覧会はクレラー・ミュラー美術館との共催で、展示されている作品はほとんどがこの美術館の所蔵品です。初めて名前を知ったのですが、オランダにあるこの美術館はゴッホの作品の大規模なコレクションで知られているようですね。行きたい。所蔵作品は元々クレラー・ミュラーという方の個人コレクションだったそうで。お金持ちは凄い。私もお金持ちになりたい! ……それはさておき。
最初の展示室ではモネ、シスレーピサロといった印象派の巨匠達の作品に迎えられます。率直に言うならこの部屋の展示は少し余分に思えました。推測なのですが、この部屋の展示は元々クレラー・ミュラー側の構想に入っていなかったのでは? 展覧会の英語のタイトルは "Divisionism" になってるのですが、日本での題は「印象派を超えて」となっているんですよね。「分割主義」じゃ人が集まらないから「印象主義」の名前を入れて、この部屋の展示を足したのではないか、などと邪推してしまいます。まあそうは言ってもやはりここにある印象派の作品も素晴らしいのですが。
次の展示室からが本番といった感じがします。スーラとシニャック、その周辺の画家たちによる、極めて緻密な点描による作品群。この部屋で特に私の目を引いたのはシニャックの「オレンジを積んだ船、マルセイユ」です。他の作品よりも太いタッチは大きな印象の違いを生んでいます。そしてそれは彼が描いてきた細かな点描の限界を越えようという試みに思えました。
次の展示室はゴッホゴーギャン、そしてヴラマンク。大胆な原色を用いた彼らの色彩感覚と分割主義の関係が示唆されます。もちらん彼らはそれぞれ単独でも大規模な個展が開催されるような画家ですけれど、こういう形で見せられるとやはり面白い。ゴッホにおける色彩分割、そしてそれ以外の個性(線の力強さとか!)が浮かび上がります。
更に進むと、「ベルギーとオランダにおける分割主義」として、少し知名度の落ちる画家の作品が並びます。率直に言うとスーラの模倣品といった印象を禁じ得ない作品もいくつかありましたが、逆にそれだからこそ、それぞれの作家の個性が現れていく様が見て取れます。特に印象に残ったのはヤン・トーロップとヨハン・トルン・プリッカー。後から数えてみるとこの展覧会に最も多く出品されていたのはトーロップです、表題に含まれていた画家たちを差し置いて。様々な作風を転々とした画家であることが今回展示されていた作品だけからでも手に取るように分かるのですが、様々な形で色彩分割の手法を応用しているのが見れました。特に感銘をうけた作品は<<L.ラウレイセンの肖像>>。トルン・プリッカーは「花嫁」という作品が絶品でした。ただ、彼に関しては展示された作品からは分割主義の影響というのが少しわかりません。
さて、最後の部屋、モンドリアン印象派風の点描絵画から少しずつ本質的な要素以外をそぎ落としていく様が見れます。残ったのは矩形と極めて限られた数色。しかしその極めて少ない要素で構成された作品がどれだけ美しいことか……。きっとこの展覧会を最後まで回った人は感じ取れるはず、そう信じています。

ポリーラウンジに参加してきたよ。

去る11月30日、池袋のグレースカフェで催されましたポリーラウンジというイベントに参加してきました。ポリーラウンジとはなんぞやというと、ポリーアモリーな人たちを中心にした交流会でございます。
え、で、ポリーアモリーとはなんぞ? ええ、今の日本だと通念的には恋愛関係っていうのは一対一の関係であるべきってことになっていると思います。そういう関係に基づくライフスタイルをモノアモリーって言います。ポリーアモリーって言うのはそれに対して、一対一じゃなくても良いじゃん、沢山の人と恋愛関係を結んで良いじゃんって言う関係の持ち方。まあ私もあんまり詳しくないのでより深く、より正確なことを知りたいという方はググってください。

――え、何それ浮気したりセフレ作り放題ってこと?
うーんまあ、そういう風にも言えるかもしれませんけどね。
――不潔! 気持ち悪い!
っせーな! 俺からしたらモノな価値観の方が気持ちわりぃんだよ!

参加したのはモノガミーな規範に対する違和感をずっと感じてきていたからです。この言葉を知るよりも前から。そして、モノアモリー/ポリーアモリーって言葉を知ったおかげで私は、窒素みたいに社会を満たす居心地の悪い恋愛規範を「モノアモリー」って言葉で括りつけて相対化して、息ができるような気分になれたのです。だからそういう人たちで集まるイベントが定期的に開かれてるって聴いて、参加したいなあとは常々思ってきました。
ただ、いまのところ私は特定の相手と関係を持っている訳ではないので、そういう意味で、ポリーアモリーを名乗って良いんでしょうか? っていうと微妙なところ。でも、恋人がいなくても同性が好きだったらホモセクシュアルって言えるだろうし、私もポリーアモリーを称して良いかなあ、と。まあそもそもこのイベントはポリーな人たちしか参加できないってわけじゃないので、良いかな、って参加のボタンを押しました。
初参加なので会場のカフェに入った頃には緊張していましたが、段々といろんな人と打ち解けて話が出来るようになって、楽しい時間を過ごせました。来ていた人はポリーな人だけではなくて、「何となく自分はポリーかも」って思ってる人(私みたいに)、ポリーアモリーな人間と関わっている人……。別にディスカッションとかをガンガンやるわけでもなく、基本的には貸し切りのカフェの中で集まった人同士がぺちゃくちゃ喋るという形式です。ポリーアモリーに対する考え方ももちろんいろんな人とお話しましたし、全く関係のないもっと下らない話もしました。
同じ考えの人がいるから自分の考えは正しい、などと思うほどの無邪気さはもう持ちあわせていませんけれども、それでもやっぱり似た考えの人がいるということの心強さは大きいですね。それで、関係性についての話を矢鱈に肩肘張ってしなくたって、こういう人たちで集まる意味ってのは十分にあるものだなあ、と実感いたしました。
ざっくばらんに話が出来るリラックスした空間だったのはオーガナイザーさんの努力の賜物でしょう。開催者と参加者に大いに感謝を。

新国立劇場「バレエ・リュス ストラヴィンスキー・イブニング」

 去る11月16日、新国立劇場にて、座付きのバレエ団によるところの「バレエ・リュス ストラヴィンスキー・ナイト」を鑑賞してきました。演目は全てストラヴィンスキーの、「火の鳥」「アポロ」「結婚」という三本立て。
 この作曲家のことは昔から好きだったこともあり演奏会などがあると積極的に聴きに行ってきましたが、バレエを観たのは今回が初めて。この作曲家がバレエというジャンルに非常に力を入れていたことはよく知っていたし、バレエ音楽はやっぱり舞台が前提となって書かれているものだから振り付けと一緒に観ないことには、とは思っていたものの。
 正直に行って、音楽ほどの興味をバレエに対しては抱いてませんでした。「何かあの派手な舞台で、何かあのちょっとエロチックな衣装を着て、何かあの独特な動きで踊る、アレでしょ?」――などといった非常に雑な先入観も多少は持っていまして。いやほんと、そんな風に思っていたことをただただ恥じ入るばかりの、バレエ初体験でしたとも!
 初っ端の「火の鳥」から舞台いっぱいに展開される絢爛たるファンタジーに感動し、「アポロ」では削ぎ落とした抽象的な音楽とダンサーの身体表現に魅了され、「結婚」の土俗的で祝祭的なエネルギーに圧倒され、本当に満ち足りた気分で劇場を出てきました。
 この三曲というのはとても絶妙なチョイスに思えます。「火の鳥」はこの作曲家の出世作ですがまだロマン派の香りが色濃く、伝統的なバレエの表現に立脚していると言えそうです。「アポロ」は新古典主義時代の「音楽は音楽以外の何も表現しない」という美学が如実に表れています。その新古典主義様式に舵を切るよりは前でセンセーショナルな「春の祭典」よりも後の作品である「結婚」は「原始主義」様式のオスティナートと変拍子が生み出す粗野さが強く在ります。「火の鳥」はともかく後者のニ作品は演奏会でもさほど取り上げられているとは言えませんし、バレエで観れるという機会は今後もそれほど多くはないのではという思いを抱いているのが正直なところです。
 いずれにせよ、舞台の機微やダンスと実に深く結びついているストラヴィンスキーの音楽の魅力をより深く知ることが出来た良い機会でした。新国立劇場のバレエ団にはこれからもこういった、あまり知られていない作品を取り上げる公演、挑戦的な新しい作品を取り上げる公演をどしどしとやって欲しいところです(きっとこれからもそうしてくれるでしょう、王道作品も上演しながら)。