電波塔

21世紀型スノッブを目指すよ!

フォートリエ展を観て、観たあとで

ふた月も前に観た東京ステーションギャラリーでのフォートリエ展について書こうとしながら、出展作品リストさえ持って帰らなかったのを後悔している。いつも、カタログは買わなくとも出展作品リストは持って帰るのだが。何が出展されていたのか記憶をたどる他ない。
調べてみようとして Jean Fautrier と検索をかけて出てくるものは基本的にアンフォルメル(と批評家ミシェル・タピエが呼んだ)様式によるものだ。そんな中で年代順にそれなりの数の作品が観れるサイトとしてはhttp://www.wikiart.org/en/jean-fautrier があった。この中にある具象作品からもいくつかは出展されていたように思える。
彼の初期の作品にはモチーフがあるのだが、ぼぅっとした暗い背景とくっきり分離しない輪郭で描かれるので現実感に乏しい。この頃から既に彼は、眼に映る対象の彼岸を描こうとしていたように見える。人物を描いても静物を描いてもそうだ。吊るされた鳥なんかもそうだ。このモチーフを過去の作家が用いるときには、狩りの勝利の興奮と共にではなかったか?
東京ステーションギャラリーでは順路が三階からスタートするのだが、初期の作品は上階に固まっていた。階下に降りると待っていたのが「人質」シリーズだ。誘拐されたパルティザンの無残な末路を連想させるこの作品群とゴツゴツとした古めかしい煉瓦の壁がそのまま利用されている東京ステーションギャラリーの展自室は合っていた。
その部屋を抜けると後期の作品が待っている。より抽象性を高めるが、「人質」の酷薄さはない。造形的にも落ち着いている。
後期の作品群に混ざって、フォートリエに対するインタヴュー動画「フォートリエ 怒れる者」が上映されていて、彼は具象美術を容赦なく切り捨てていた。自身の初期の作品も含めて━━正直に言うと私はその時彼の具象作品の方が気に入っていたのだが。

はっきり言えば厭な作品ばかり並んだ展覧会だった。彼の作品は陰鬱な色彩で暗い連想を催す作品ばかりだった。それは「不定形」と呼ばれた絵具の塊をキャンパスに盛る手法に至る、前もあとも変わらないことだ。

抽象絵画は結構好きだが、今回は妙にもやもやした。「よくわからない」と思った。よくわからないのは別に悪いことじゃないのだが。そのもやもやはこれを書いている動機の一つでもある。
仕方がないから色々調べているが、なかなかしっくりした記述に出会わない。彼が婚外子であったこと、フォートリエというのは母方の姓であったこと、ゲシュタポに捕まったこと、などはわかった。ふーん。

検索のクエリには工夫の余地があるかもしれない。でもまとまった本を探した方が良さそうに思える。
西洋美術館で「ソフィア王妃芸術センター所蔵
内と外―スペイン・アンフォルメル絵画の二つの『顔』」のカタログが手元にある。それを読み返していると、

戦後の精神的危機、以前の前衛が生み出したユートピア的信条への反感、そして実存主義的、現象学的思考という新しい潮流と結びついた、最終的な拠り所としての個人の復権が、歴史によって賞揚された美学的価値の拒絶と、芸術の実践の再提起をもたらしたのである。
イメージや伝統的な絵画の拒絶という点でアンフォルメルに特有の個性を与えたこの抽象の突然変異は、ある創造的態度を共有しつつも各々に際立った個性を備えた多様な芸術のありかたを提供した。

という記述に出会った。この時代には様々な画家が抽象的な表現を試みたが、共通点と差異があり、恐らく差異の方が大きい。

フォートリエの画面には凝集していく点が見えるように思える。「モノ」がある。「アンフォルメル」とはいうものの。例えそれが現実世界に存在するものをモチーフにしていなかったとしても。そこは彼の個性に思える。

「内と外」で出展されていた作家の一人にタピエスがいる。同じカタログの中で、彼については、

特定のイメージの再現を超え、物質そのものとしての絵画存在を観者に直接、訴えかけるようになったのである。

と書かれてた。ちょうど同じことをフォートリエに関して思っていたところだ。

でもタピエスの作品とフォートリエの作品とは全然違う。基本姿勢しか共通していない。フォートリエが作った「絵画存在」にはタピエスとは比べ物にならない居づらさを感じた。
しかし、きっとそれはフォートリエの表現が成功していたからではないか?

観たもの、2014年6月 続き

もう7月も終わってしまう。すぐに書かないとどんどん忘れていくせいもあって、何だか雑なまとめ方になってしまった。

展覧会「ジャック・カロ―リアリズムと奇想の劇場」国立西洋美術館にて

http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2013callot.html
ジャック・カロの版画には独特の遠近法があって、彼が編み出した様々な太さの線を使い分ける技法によって広い空間を画面に封じ込めている。街の広大な俯瞰図なども面白いし、狩りの情景を描いた作品での、猟犬が鹿を仕留める、主題の中心となるはずの現場を遠景に据えたりするような空間の活かし方も特に面白く思った。
上流階級の人々の暮らしや宗教的な主題だけでなく、戦争、下層階級の人々といったところまで時代背景が色濃く映し出されていた作品群は興味深い。特に、戦争を取り扱った作品では、勇ましい戦闘ではなくその後の兵士たちによる略奪行為、軍内での処罰、といったところに着眼しているところなども。
ただ、同時開催の「非日常の呼び声」の方には二、三点のデューラーが出典されていて、それを観てしまうとカロの銅版画の印象は随分と色褪せてしまった……。

映画「ヴィオレッタ」

http://violetta-movie.com/
母親のヌードモデルにされた少女のお話。
何よりも主演の女の子の妖艶さに当てられた。ヴィオレッタは「少女」と「女」の両方を兼ね備えてどちらともはっきり言えない不安定さを持った役柄だが、本当にお見事。モデルとしての堂に入った振る舞いと子供の脆い精神を晒す瞬間とが交錯するのが絶妙。母親もまた素晴らしい。完全に頭がおかしいけれども頭がおかしいなりに子に対する愛情を垣間見せている。
愛情はあるが歪んだ形でしか表に出せない、行動は狂っているが愛情は抱いている、そのような崩壊している家庭内で見られる行き違いがこの作品では描かれている。監督自身の経験がもとになっているそうだが、そういう風にやや俯瞰した視点を感じさせる辺りに「自伝的」というにはややドライな感触も持った。自分の過去、親との関係に対する和解のために作ったのかもしれない。

映画「エル・トポ」

ドキュメンタリー「ホドロフスキーのDUNE」を観たあとで、やはりこの人の撮った映画もちゃんと観なきゃな、ということで、アルハンドロ・ホドロフスキー監督・主演・音楽……のこの作品を観に行った。
この映画は……なんといえば良いのか。スピリチュアル西部劇?
セットや特殊メイク、スタントなどは現代の眼で見れば全く雑。東洋思想めいた価値観・技術を持つ敵たちとエル・トポが戦っていく前半はともかく、障碍者たちの村で神と崇められるようになってからはもう本当にどういうメッセージが籠っているのかわからなかった。

展覧会「マリー・ローランサン展~女の一生~」 三鷹市美術ギャラリー

マリー・ローランサンの作品で私が実物に触れたのは、横浜美術館で常設展示されていたエッチングだけだった。そのせいか? 三鷹に用事があったのでこれ幸いとこの展覧会でも強い感銘を受けた作品の大半は版画作品であった。全くの好みの問題かもしれないが、形のデフォルメのセンスほどには彼女の色彩に興味を引かれなかった。

展覧会「冷たい炎の画家 ヴァロットン展」三菱一号館美術館

http://mimt.jp/vallotton/top.php
フェリックス・ヴァロットンという画家の名はそれほど通ってはいないだろう。私も去年催されたこの美術館の所蔵作品展で作品に触れるまでは全く知らなかったけれども、不気味な黒い塗りと滑稽な人物の描き方、皮肉の効いた題材を描く版画群に感嘆した。それらの版画に加えて油彩もたくさん観れるということで、この展覧会は楽しみにしていた。
キュビスムフォーヴィスムといった彼が生きた時代の前衛美術の嵐からは距離を保っていたものの、この画家の作品には確かな創造力が宿っている。家庭生活におかけるすれ違いといった題材、画面から飛び出してくるような存在感を物体に持たせる鋭利な筆跡、時に空間の歪みを孕んだ構図、題材の理想化を拒むシニカルな観察眼……それらはとても魅力的だ。

観たもの、2014年6月

展覧会「ニコラ・ビュフ ポリフィーロの夢」原美術館にて

美術館全体をゲームの世界にしようといったコンセプトの展覧会だった。まずエントランスからしてそうで、大きな猫みたいなキャラの作品が設置されていて、その口のなかへと入っていくことに。
ニコラ・ビュフという人は、乱暴に言うならゲーム的にありがちな擬似西洋ファンタジー風の世界観を再解釈して作品にしている。素材が妙に金ぴかだったりプラスチックだったりと安っぽいのに、『作品の芯』とでもいうか、基本的な造形などは安定している。その齟齬が何とも変な感じ。西洋美術の伝統を身に付けた作家がこういうことをやるというのは何だか「ズルい」と思ってしまう。単純にこの人ゲーム大好きなんだろうけれども……。
一階の展示室には、黒いプラ板を切り貼りした上に可愛らしいキャラのパレードの様子を白一色で図像を描いた大きな壁画風の作品があった。この作品は結構気に入ったのだけれど、同種の作品を別の場所でも観たことを思い出した。フランス大使館の取り壊し時のイベント「No Mans Land」でのエントランスゲート、この人だったのか、って。

バレエ「パゴダの王子」新国立劇場にて

http://www.nntt.jac.go.jp/ballet/pagoda/
新国立劇場バレエ団の前芸術監督デヴィッド・ビントレー氏の退任公演。このバレエはベンジャミン・ブリテンが作曲したもので、プロダクションはこのバレエ団による。筋書きには大胆な翻案を含んでいる。私が観に行ったのは初日の公演だった。
妖怪の被り物とかはともかく、四人の王のあの衣装(一人は完全に米軍の "I Want You" のポスターから出てきたような風貌だった)は何だよ! って思ったけれど、全体的には小道具も大道具も美しくて、観て楽しい演出だった。
ダンスのキャストではさくら姫の小野さん、エベーヌ皇后の湯川さんが抜きんでていたように思う。
面白いと思ったのは道化役の使い方。開演前から幕の前に出ていて、幕が上がったらそのままキャストにちょっかいをかけて回り、そして終わるときにもステージに降りていく幕から抜け出してくる。おとぎ話の世界と現実の間の繋ぎめのような役割だった。
何より、ブリテンの音楽が素晴らしい。第二幕以降のガムラン風の音楽は特徴的だし、前衛ではないものの和声やオーケストレーションには二十世紀らしい新鮮さがある。

映画「ホドロフスキーの DUNE」

http://www.uplink.co.jp/dune/
「カルト映画の巨匠」アルハンドロ・ホドロフスキーの未完の大作「DUNE」にまつわるドキュメンタリー。
ホドロフスキーを中心に制作スタッフたちのインタビューが内容の大半を占めている。80歳を超えたホドロフスキーのエネルギッシュさには圧倒された。エネルギッシュというかかなり頭がおかしい。デヴィッド・リンチ版の「DUNE」の駄作っぷりに喜ぶシーンとかピンク・フロイドに説教した話とかには笑ってしまったけれど、映画が頓挫したくだりを語るときの彼は本当に怒りをあらわにしていた。激しい人だ。
他の制作スタッフも魅力的な人物ばかりで、こんな人たちが夢のように語るプロジェクトを(未完に終わったとはいえ)導いたホドロフスキー、その人たらしっぷりが憎い。

映画「フリークス」

これは今年封切りのものではなく戦前の映画で名画座に観に行った。現代だったらまず撮れないんじゃないのか? 小人症、身体欠損、シャム双生児……といった身体障碍者、「フリークス」たちが出演する、見世物小屋を舞台にした映画。
筋書きとしては比較的わかりやすい勧善懲悪ものだったが、最後のシーン(遺産目当てに主人公を毒殺しようとした女性が自らもフリークスになってしまう)は少し納得がいかないなあ……(だってそれが「報い」なのだったら、ここまで活き活きと描かれてきた「フリークス」たちの立場はどうなるの?
映画の中ではコミカルな一面も見せるこういう人たちって、実際にはどういう人生を歩むことになったんだろうか、などというのはなかなか想像するのが難しい。

映画「チョコレートドーナツ」

http://bitters.co.jp/choco/
前評判をよく聴いていたので観に行ったけれども、本当に良かった。
ドラッグの不法所持で捕まった隣人の息子を、自分たちの関係を隠したゲイのカップルが引き取り幸せな日々を過ごすのだが、次第に彼らの関係が露見し始め……というお話。実話を下敷きにしているようで、同性愛者が社会的に置かれた位置の理不尽さ、家族という関係に関する疑問、……などのテーマが絡む。
この映画は脚本も演技も優れているし、随所で挿入される歌もとても良い……けれども、カメラワークがなかんずく素晴らしい。構図、ライティング、映像の質感、レンブラントの絵画すら思わせる美しさでため息が漏れるばかり。

実はこれで感想を書きたいもののうち半分くらい。先月は観たものが結構多い一方で今月はなかなか書く時間が取れないからこういう状態に。全部について書き切らない間に来月になりかねない気もしてしまうが……。

ドキュメンタリー映画の悦楽

カンボジアの映画監督リティ・パニュによる、クメール・ルージュ政治犯収容所に取材したドキュメンタリー映画「S21 クメール・ルージュの虐殺者たち」を観に行ってきた。ここで内容にそれほど深く踏み込むつもりはないが、2万人の収容者のうち生き残ったのは数人だけの「生きては出られない」この収容所のかつての看守と囚人との双方を再びここで対話させる、というやり方で作られた映画だ。

映画は最近とみによく観るようになったけれども、内訳としてドキュメンタリー映画は多い━━しかもそのうちの大半はおぞましい事件、理不尽な政治状況、戦争、虐殺……を扱ったものだ。

どうしてこんなものばっかり。
私には問題意識があるのだ。そう、現代の日本のような平和な世の中は、これまでの人々が、遠くの国で生きる人々が血を流して闘ったから成り立っているのだ。それを忘れてはいけない、見つめなきゃいけない。
……そういえば聞こえは良い。でもそれは嘘だ。いや、完全に嘘というわけではない。ただやっぱり、それだけだというのは本当ではない。

本当は? 悲惨や理不尽を描いた作品には独特な快感があるからだ……特にそれが現実に起きた事件であれば。
悲惨を作り出すのは人間である。人間が如何に簡単に「悪」へと堕ち、如何にそれを受け入れ、如何に冷厳に実行するか。私は人間をそれほど見上げた存在だとは思っていないから、そのように「人間性」の皮を剥ぎ取られた姿を見せつけられると思うのだ。ほらね、やっぱりね、……。
一方で、悲惨に立ち向かうのも人間である。さっき書いたことと矛盾するようだが、人間は偉大になりうると思っている。しかし、もちろんそんな人間は多くはないのだ。多くの人間たちの弱さと並べると彼らの姿は神話の世界の住人のようだ。真に感動的である。自分が同じ立場であれば到底出来ないような行いを追体験するのは快い。彼らが立ち向かう困難が大きければ大きいほどに。しかも私がすることといえば劇場への入館料を払って椅子に座り続けることだけ、というお手軽さだ。
そして、全てを見終わった瞬間の安堵。周囲の平和への、街を弾丸が飛び交わないことへの、公権力が迫害してこないことへの。

はしたないことと思うが、これらをとても快く感じてしまう。一種のマゾヒズムでもあるように思われるが。言葉よりも強く訴えかけてくる風景や人物の表情をずっと大写しにし続ける、このドキュメンタリー映画というスタイルほど、強くこの種の刺激を与えてくれるものがあるだろうか?

「S21」を見終えてアパートに帰った私は部屋の窓に鉄条網がかかっていないことを確認し、ぼんやりと愉悦に浸った。

レトリックとロジック、またはどうしてみんな国語が嫌いなのか

 国語ほど嫌われている科目があるだろうか(国語で習った反語表現というやつだ)。
 数学も同じくらい嫌われているかもしれないけれど、数学が嫌いな人の大半は、いや半分くらいは、点数が取れなくて苦手意識を持っているだけで数学を軽蔑している訳ではない……望むらくは(世の中に「二次方程式などは社会へ出て何の役にも立たないので、このようなものは追放すべきだ」などと仰る小説家もいることは知っているけれども)。それに対して、国語が嫌いな人というのは基本的に国語という科目を馬鹿にしきっていて、小学校の科目で言えば道徳の次くらいに無価値な時間だと思っている。
 一方で、国語は大事だと力説する人もまた多い。「英語力よりも国語力が大事だ」とか、「あいつには国語力が無い」と罵倒したりとか。でも、「国語力」などという言葉が使われることにこそ、国語という科目にまつわる問題が露呈しているのではないか。

 国語、特に現代文の時間に扱われる内容というのは以下のように分類できるだろう。

  1. 日本語の文法、語彙
  2. 修辞技法(レトリック)
  3. 論理的な読解能力(ロジック)
  4. 作文
  5. 名文の観賞

 1.はこの国で使われる日本語という言語の基本的な能力。2.は文章表現の幅を広げる技法。3.は文章の構成要素同士の関連性を把握する技術。4.はそれらの発信面での能力。5.は何らかの理由で小学生が読む価値のあるとされた文章を読み、その内容および様式について知ること。
 作文が嫌われ者なのはよくわかっているが(どうして自由に書けって言われた内容に関してごちゃごちゃ言われないといけないんだ!)、ここでは措いておく。そのうえで私の考えを述べると、国語が嫌われる理由というのはレトリックとロジックとが同じ時間で扱われていることに端を発する。その結果として、文章を読み書きする際にこの二つの観点をどう扱うべきかをきちんと理解しないまま子どもの学年は上がっていき、場合によってはよくわからないまま大人になってしまう。

 優れた修辞と優れた論理とは常に矛盾するわけではないけれど、相反する面は厳然としてある。文章を巧みに飾れば正確な意味の伝達から離れてしまうことがあり、正確さを追及すると文章表現の味わいを損ないうる。それでも、レトリックとロジックはどちらも文章に関するものだからと、両者は区別されないまま――というよりも、区別が生徒には伝わらないまま――同じ国語の時間に詰め込まれている。

 センター試験を筆頭に、国語の問題というのは大抵、論説文に関する問題と小説に関するものとで構成される。そしてそれぞれの大問ごとの点数ばかりが見えてしまう。それでついつい「現実の物事に関する考えを述べる論説文を読む能力」と「空想の世界での物語を綴る小説を読む能力」という二つが問われているのだと思わされてしまいがちだけれど、そうじゃない。問われているのはどちらにおいても修辞技法の理解と論理展開を読み解く能力となのであって、重要なのは文章のジャンルが変わってもその二つを運用できるかということだ。もしそれが学術論文なのであれば意味の伝達を損なうような種類のレトリックは排され、詩歌ならば多少のロジックの欠如は問題にならない。しかし国語の問題で扱われる論説文というのは厳密な学術論文ではないし、小説の方も無秩序を目指すポストモダン文学作品から出題されたりはしない。よって、ウエイトの差はあれ、双方において凝った修辞があり、しっかりした論理的な構成がある。言い換えれば、どちらの文章スタイルの読解に関してもレトリックとロジックとの能力が必要になる。もっと言うと、二つの側面から得られた理解を総合する能力もだ。
 どうしてそういうことを問題にしているのか、それを国語嫌い量産の原因だと私が考えるのはなぜか。それは「論理的な」論説で修辞技法に関する問題が出たり、「感情的な」小説に関して論理読解問題が出たりした時に戸惑ってしまう人が多いからだ。論説文の中でちょっと意味不明瞭な比喩表現の用いられる箇所があったら、決まって傍線が引いてあり、「これは何を意味しているか」などと問われる。これはレトリックへの理解を問う問題で、様々な修辞技法に関して知っていればある種のパターンマッチングで解ける。でも「どうしてそうなるのか」という文章中の根拠は得てして希薄だ。小説の方では登場人物の何かの行動の描写に傍線が引かれていて「この時の主人公の心情を答えよ」という、本当にみんな大嫌いなあの手の問題が出る。これはロジックを問うているので、文章中から手掛かりとなる記述を見出し、それらの関係に基づいて正解を導く必要がある。出題者が間抜けでなければ(残念ながらそういうこともある)正解のための手掛かりが文章中にきちんと用意されている。けれども、「論理的であるはずの」論説文について美学的な見地から解く問題が出題されたり、「感情を述べるはずの」小説を自分の感情に基づいて解いたら減点されたりすることに対して、たいていの人は混乱して腹を立ててしまう(前者に憤る人たちに、学術論文を読むという安寧の時が早く訪れんことを)。

 国語という科目で問われている能力にはレトリックとロジックという異なる観点に立脚するものが含まれており、またそれらを適切に発揮することが要求されている。でも、だれの責任かは措いておいて、そういう科目だったんだと解らないうちに、解らないと怒りながら、多くの人が学校を卒業してしまう。それでいて、国語力だ、国語力だ、とやかましく言う人たちは後を絶たない。ロジックに関する能力を指して「国語力」と言われているのを聴くと残念な気分になるし、国語の点数が悪かったから自分には文章表現を味わう能力が無いんだとばかりに言われてもやっぱり残念な気分になる。

 でもね。文章を読むにしても書くにしても、レトリックとロジックという二つの軸があるということを意識すればずっと面白くなる。そして実は、そういう二つの軸を意識してもう一度整理すれば、国語の時間に習ったことは案外捨てたもんでもないんじゃなかろうか? 文章表現に関わる本を何冊か読んでから、私はそう考えるようになった。

観たもの、2014年5月

新日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会

幸運にも知人から券を譲っていただけた演奏会。指揮者はダニエル・ハーディングで、曲目はブラームス交響曲第二・三番。
ハーディングの指揮するブラームスという意味では以前に一度聴きに行ったことがあって、その時のオーケストラはマーラー室内管弦楽団、演奏したのは交響曲の三番と一番。この時の演奏は私が今まで聴いたオーケストラの演奏でも屈指のものと記憶に残っているから、今回も楽しみに聴きに行った。
ハーディングがドイツ・カンマーフィルとブラームスの第三第四交響曲の録音をしたのはかなり若い時期だけれど、私が二回聴いたブラームスの第三番の演奏でも基本的なテンポ設定、音楽作りの方向性は変わっていなかった。つまり、比較的速いテンポ設定を取り、編成を抑えたオーケストラによってブラームスならではの各声部の動きの積み重ねを明確に聴かせるというアプローチ。このアプローチに対して私は非常に好感を持っている。そして、ありきたりな表現をするなら「円熟してきた」というのか、レコーディングに比べれば実演で触れた演奏の歌わせ方はずっと柔らかで、テンポの揺らし方も落ち着いたものになっていた。
弱音を大きく落としていたりフレーズの終わりの間を大きく取ったり、楽曲全体の本当の頂点まで強奏をわざと抑えたり、そういう面はちょっとあざとい感じもした。でもあざといと思う一方でしっかり感動させられていて、やっぱりこの人は凄い。指先一本まで使って音楽を表現するボディコントロールも観ているだけで惚れ惚れする。
ただ、オーケストラに関して言うと……マーラー室内管に比べると見劣りするところがあるのは否めないなあ……ということも正直に言えば思ってしまった。

魅惑のニッポン木版画 横浜美術館にて

この展覧会に関しては先日も記事を書いた。
http://ngrblog.hatenablog.com/entry/2014/05/17/112103
実はこれをまとめた後でもう一度観に行った。この次に書くコーロ・フォレスタの演奏会を聴くためにみなとみらいまで行くことになったからで、演奏会の前後にまた軽く観ることにしたのだ。そうすると、出展しておられた桐月さんのトークが幸運にも聴けた。
桐月さんは「木版画というフォーマットに至った理由は」と訊かれて、「絵画とか石版画などの真っ白なところから自分で何もかも描かないといけないものだと何をしていいのかわからなくなってしまうけれども、木版画だと木目があるから何かできる気になれた」、といった趣旨のことを述べておられた。彼女の作品はまた観たいし、もっと言えば手元に欲しいくらい。

コーロ・フォレスタ定期演奏会

このコーロ・フォレスタはアマチュアの合唱団体だけれど、音楽監督として飯森範親氏が指導している。それもあって、この演奏会では飯森範親氏が同じく音楽監督を務める山形交響楽団が伴奏を! 演奏した曲はベートーヴェン晩年の大作、荘厳ミサ曲。
山響は金管楽器ピリオド楽器を導入しているという話だから、トランペット吹きとして興味を持っていたし、しかも大好きな荘厳ミサ曲を聴けるということで、楽しみな演奏会だった。
コーロ・フォレスタには最初の和音からとてもクリアーな響きで驚かされたし、山形交響楽団もこれまた素晴らしい音色のオーケストラだった。殊に楽しみにしていたピリオド楽器金管セクション・ティンパニは、期待以上にというと失礼だろうか、品格のあるこなれた演奏を聴かせてくれた。
飯森氏のアプローチはこういうオーケストラを指揮している「にしては」というか、幾分重いテンポ設定と表情付けだった(ノリントンとかジンマンとかと比べてしまうからね)。
オーケストラの編成が小さ目だったのもあって合唱が少し強いかなあとか、流石に大曲だからちょっと疲れてくるなあとか、そんなことも思ったけれども、良い演奏会だった。
荘厳ミサ曲は録音でよく聴いてる割りには歌詞をろくに追わずに聴いていたので、歌詞を見ながら聴くといろいろ発見があった。真剣な聴き手には今更なことなんだろうなあと思うけれども……。ベートーヴェン典礼文のテキストの内容をはっきりと音楽に反映していて、それは典礼のためとして考えるならばいささか扇情的なくらいだ。私にはどうも、特定の信仰の理念というよりはもっと普遍的に人間が抱く感情の音楽化を目指した(もちろんそこはベートーヴェンだから、緊密な楽曲構成の中で実現することを前提として)んじゃないかなあと思えた。その辺りは専門家の間でも諸説あるようだし、研究論文などを読んでみるのも良さそうだ。

アルテミス弦楽四重奏団

1989年に結成されたこのドイツの団体は、現役の弦楽四重奏団の中ではもうベテランの部類に入ると言えそう。曲目はブラームスの op. 51-1、クルターグの op. 28、ベートーヴェンの op.131 と、ロマン派も前衛もやったりますぜといったプログラム。「メンバーが変わって初来日」とプログラムに書かれていたけれど、実のところそんなに活動を追ってきた団体ではないので昔と比べてどうこうということはあまり言えない。
第一ヴァイオリンが引き倒すのじゃなくて低音の支えの上に音楽を作るタイプで、流石に落ち着いた、安心して聴けるアンサンブルだった。ハーモニーの聴かせ方やヴィブラート、ダイナミクスの作り方、何をとっても緻密な計算の上で実現しているなあという印象を持った。
クルターグに私はとても感銘を受けたのだけれど、こういう曲は例によって一部の客だけが盛り上がる。楽曲の魅力を伝える整然とした演奏をしていたけれど、どう提示されたって嫌いな人は嫌いだろうから、仕方ないか。
彼らは立って演奏していて、そういう弦楽四重奏団は実演で初めて観た。他にもそういう団体があった気はするが。視覚的にも音楽を伝えようという意味ではこちらの方が良いのかも。

映画「闇のあとの光」

メキシコの映画監督カルロス・レイガダスの日本初公開作品。
予告編を観て「何だかよくわからないけど観てみたい」と思わされたので観に行ったが、「何だかよくわからないけど凄かった気がする」という感想である。
公開初日に観に行ったところ、レイガダス監督自身のメッセージ映像も観れるという特典付きだった。「日本と私の国とは全然違うけれど何かは伝わるだろう、それは正確な理解じゃないけれど私は自分の作品を自由に解釈してほしい」という、まぁありきたりな発言を彼はしていた。正確にどころか全く理解できた気がしないが、気楽に自由に楽しめばよいと製作者が言っているなら安心できるというものだ。
「幸福に見えた家族を不幸が襲う」という(どんな不幸かまでは書かないことにする)十五秒程度で説明できるあらすじだけれど、それがじっくり二時間で展開されて、しかも途中で不可解なシーンがいくつも挿入されるものだから、物語にどれほどの重要さがあるのかはピンと来ない。時間的に十年くらい後と思しいシーンも挿入されたりするけど、どうも各シーンがストーリーに対して明確な意味を持って結びつかない。結局人生だっていろんなシーンがあるけどほんとは意味なんてわからない、ということなんだろうか? どうしてかわからないけれど、この映画は何の気のない日常風景を写す映像からも強い暴力が感じられた。それは例えば車で走っているだけのシーンだったりフットボールのシーンだったり……。
ただ確かなことには、映像自体の魅力だけでも最後まで観れてしまう。それに関しては Youtube を張り付けた方がわかりよいかと思う。

映画『闇のあとの光』予告編 - YouTube
子供の頃に感じた暗やみとか雷とかへの恐怖感を思い出させてくれるオープニングのシーンだけでも、劇場で観る価値はあった。

感性は的、いや敵

 などとつまらないダジャレたモットーを思いついたのは昨日だけれど、前々から実践しようとしていたことである。つまり、文章を書くときに「感」や「性」や「的」といった接尾辞を安易に使わないようにしよう、ということだ。恐らくこんなことは言い古されているのではないかとも思うけれども。
 そうすべきだと考える理由は、一つには不要あるいは誤用であるケースでこれらの接尾辞を付けてしまうことが多いからであり、もう一つには別の表現を考えた方が文章表現として豊かになるからだ。いずれにしても、これらの接尾辞を使ってしまった場合は――心がけているといってもまだついつい書いてしまうので――一歩立ち止まって考えるようにしている。

 先日わけあって読むことになったとある会議の議事録にこんな部分を見つけた。

【位田委員】  細かいことが多いのですが、5点、申し上げたいと思います。
 第1点は、3ページの「はじめに」の一番最後の部分なのですが、「基本的な方向性」とあります。最近、「方向性」という言葉がよく使われるのですけど、「方向」ではないのでしょうか。方向性と方向とどう違うのか、私はちょっとよく分からないのですけど、何となく行政用語で方向性、方向性と言われていて、じゃあ、方向と方向性はどう違うのかなというのはよく分からないのです。これは我々の議論をこういう方向で指針を決めていきましょうという話なので、「方向性」という話ではないのだろうと思います。これが第1点です。

科学技術部会疫学研究に関する倫理指針の見直しに係る専門委員会・臨床研究に関する倫理指針の見直しに係る専門委員会審議会議事録 |厚生労働省より)
これは科学技術部会疫学研究に関する倫理指針の見直しに係る専門委員会・臨床研究に関する倫理指針の見直しに係る専門委員会審議会資料 |厚生労働省の「中間とりまとめ」にある

 本中間取りまとめは、統合指針の具体化に先立ち、その基本的な方向性や考え方を整理したものであり、今後、本中間取りまとめを基に、指針具体化に向けた検討を進めていくこととなる。

という記述を指して言っている。この指摘は全く正しいだろう。接尾辞「性」は「~の性質を持った」と言う意味の語を作る接尾辞であるから、「方向」に「性」をつけることによって「ある物事や人物に、目指すところや向かうところがあるようす」という大辞泉の定義にあるような意味合いになる。だから例えば、落としどころに向かって着々と進展していく実りある議論を指して「方向性のある議論」という使い方なら良いだろう。けれども上記の例では「議論をまとめていく際に向かうところ」といったところが意図であり、「方向を持つ性質」という意味で解釈したら意味が通らないので、単に「方向」とすべきだ。これはまさに、ついついやってしまう誤用の例である。
 「感」に関しては少し微妙なケースが多い。例えば「恐怖」なんていうのは元々感覚的なものなので「恐怖感」なんて語は二重表現であるように思えるけれども、こちらの方がしっくりくる状況もあるように思われる。これに関してはもう少し考えてみたい。昨日投稿した文章にも一度「距離感」と書いた箇所があったけれど、「距離」で良いだろうと思ってあとから直した箇所があった。これなどは趣味の問題でもある。ここで「距離感」と書いたのは物理的な距離のことを指しているのではなくて主観的なものであるから、誤用には当たらないだろう。ただ、「距離」に関しては心理的に感じる隔たりとしての用法も定着しているから不要でもある。これは隠喩表現とも見ることが出来るだろう。そういった表現の方が好ましいというのが私の感覚である。
 一方で優れた効果を持つ用法もある。あるバンドのリハーサルで、演奏を力強く聴かせるための指示をいくつかコンサートマスターが飛ばし、バンドにやらせたあとで、「これくらいのパワー感があればええやろ」と言った。この「感」は良い用法だと私は思った。音楽の「パワー」というのも主観的に感じるものではあると思うけれど、ここで言いたかったことは「実際の音量(これを『パワー』と言い換えられる)を大きく変えなくても、いろいろな工夫をすることでよりパワーを持っている『印象を与える』ことが出来る」ということだからだ。「パワー感」という一語でそういったニュアンスを持って伝わるのでこれは的確だ。

 ……などと考えをつらつらと書いてみたが、この接尾辞の問題に関してはまだまだ考えられることがありそうだ。もっとたくさんの例に基づいて考えるべきでもある。[Q&A] 接尾辞「~性」に関して 【OKWave】のような議論も見つけて面白いと思ったので、また折りがあれば書いてみたい。