電波塔

21世紀型スノッブを目指すよ!

いわゆる教養

 人から「教養があるね」と言われる程度には私は教養なるものを備えているらしい。このブログでも話題にしているように美術だとか音楽だとか書物だとかに親しんでいることを、それは指しているようだ。そう言ってくる人の態度にはどこか距離がある。このせりふは大体「自分には教養がないから」という言葉とセットになって出てくるのだ。
 逆に、そのことに関して悪言を吐かれることもままあった。年齢を重ねるとともに言われる頻度は減っていったけれども。高校の頃が一番ひどかった。中学や高校のクラスメイトの中には「そんな面白くもないものを読んで」「偉そうにしやがって」「そんな本なんか読んだって何にもならない」などと言ってくる奴らがいたものである。彼らは「何にもならない」ことを一切していなかったのだろうかと私は訝っている。大学に入ってから「似非教養人」呼ばわりされたこともある。彼の考えでは私は見せかけのために「高尚な」ものを知っている「風な」振る舞いをしている、ということらしい。

 「教養」に関してはそういった両側からの態度があるのだけれど、結局この二つの態度は根本的には一緒であるように見える。つまりそういったことを言う人たちの考えでは、

  1. 古典的な文学や芸術に親しむことは「教養」に属するものであり
  2. 「教養」を身につけるために消化しないといけないそれらのものは質的に理解を超えている、あるいは量的に膨大なものであり、
  3. そのために「教養」は身に着けるのが非常に難しいものであり、
  4. それらを身に着けている(身に着けようとする)ことはカッコいいことあるいはカッコつけであり、
  5. そういう風なカッコいいことをすることによって人からの(ただし往々にして発言者自身は含まない)敬意や人気が得られる

のだろうということだ。
 このうちの大半に関して私は疑問を抱いているが、「教養」なる言葉はこのように使われていることの方が多い以上、それは蟷螂の斧と言うべきなのだろう。

 もっとも、私自身もそういう風に考えていた。高校の頃に私はよくドストエフスキーを読んでいた(「よく」と言うのは何回も繰り返し読んでいたという意味ではなくて、長いから必然的に読んでいる時間が多くなるという意味)。読み始めた理由はまさにそういう「教養」を身につけたかったからだ。身についている方がカッコいいと思っていたからだ。でも次第に、読む理由は単に「面白いから」へ変わっていった。なんだって結局そうだ。長い年月親しまれているようなものというのは大体面白いのだ。楽しもうとすれば、楽しみ方を知ろうとすればね。一方で、「面白い」という以上に得をしたことがあっただろうか? あったといえばあったかもしれないけど、大して実感はない。
 人と違うことに楽しみを見出している人間というのは異質だ。そして、異質であることで得ができる人間関係というのは稀だ。「教養」があることがカッコいいなんて誰も本心では思ってはいないのだけれど、「どうもカッコいいものと見なされているらしい」というイメージだけがなぜか共有されている。もっと言うなら、「教養」というのがどんなものか自体みんな本当はよくわかっていないけれど、古き良き時代には「教養人」が存在していたらしい、あるいは現代でも自分たちと交わらない雲の上にはそういう人が住んでいるらしい、となぜか信じている。
 そんな具合なんじゃないのだろうか。

ジャケット一着で

 先月のことになるけれど、働き始めたことだしちょっと良いのが欲しいなと、ジャケットを買った。それまで持っていたものと言えば、高校生の時に買った安物の哀れなくらい着古されたものが一着と(いや、正確に言うとこれはあまりにみすぼらしかったので少し前に処分していたが)、サイズが合っておらずデザインにもやや癖のある貰い物くらいだった。
 PARCO に行っていろいろと物色していると Journal Standard で気に入るものが、気に入ってかつ手の届く値段のものが見つかったので、それにした。一万二千円だった。
 ジャケットに対して一万二千円というのをどう捉えるかは人によるだろうけれども、貯金も全くない状態で働き始めた私にとっては結構な贅沢だ。それに、これは私が服一枚に対して自分で出した金額としては(つまり高校を卒業する時に親に買ってもらったスーツを除いてという意味で)最高額でもある。
 でもそれとは矛盾するように見えるかもしれないけれど、これは探した中で着たいと思えたジャケットの最低ラインの価格でもある。それまでにもいろいろな店で探してはいたけれど、一万円以下では着たいジャケットを見つけることができなかった。もしも六、七千円くらいで欲しくなるものを探し当てていたら(もう少し幅広く探せば出会うことができたかもしれないとは思う)、学生のうちに買っていただろう。

 良い服は高い。「モテるためには別に凝った服は着なくて良い、デザインは普通で良いから清潔感があってきっちりした服を着れば良い」みたいな言葉を時々見かける。それはきっとそうなのだろう。ただ、まさにそういった服こそちゃんとお金を払わないと手に入らないものだ、と私は思う。ナチュラルメイクがすごく丁寧なメイクなのと同じようなもので、実際のところそれが意味しているのは、一見すると無難な中にも微妙なラインの良さがあって・生地の質が高く・丁寧な縫製がなされている服だということだ。腕の良いデザイナーを雇って、しっかりした生産ラインで作られたものだということだ。しかも欲しい人が多くて値段は下がらないものだということだ(セールでたたき売られている服というのは大体イケていない!)。

 新しいジャケットを着て旧知の友人に会ったら、「えらく服装がまともになりましたね」と言われた。彼はあとでそれに関して「感動した」とまで Twitter に書いていた。また別の友人に会ったら「すごい、パリッとした服を着てる!」と言われた。
 そんなもんだよな、と私は思った。それなりに嬉しくはなったけれど。そんな風に言われるだけのみっともない格好をしていたことがわかる。
 数日後にぼんやりとTwitterのTLを眺めていると、むかし私に向かって「服がダサい」と言ってきたお嬢様が四万円のパジャマを衝動買いしたという投稿があった。
 そんなもんだよな。

 負け惜しみに響くからあまり口には出してこなかったけれど、着ている服の見栄えなんてセンスの問題ではなく費やした金額の問題だろう、基本的には。そういう考えでいる。だって、お金を払えばセンスの良い人たちの作った服が買えるんだから。自分には服のセンスが無いって思っている人は、いままで買ってきたよりも二倍の値段の店で買えば良いんじゃないだろうか。それが出来ないあるいはやりたくないなら、仕方がない。
 「アクト・オブ・キリング」で、プレマン(民兵団)のリーダーがなぜ違法な稼業をやっていたのか、なぜそんなにお金が欲しかったのかについて「良い服を着たかったからだ」と言っていた。その一文は、スクリーンに映る彼が放った言葉で唯一と言える、共感できたものだった。着ているものでどれだけ人が判断されることか。

 随分とシニカルなことを書いてしまった(書きたくなるだけのコンプレックスを抱えてきたのだなあ)。でも私は服屋に行くのが結構好きだし、これからは経済力の許す範囲で良いものを身に着けていたいなあと思っている。
 その方が良い気分になれるから。

追記:
「四万円のパジャマ」というのは間違いでジャケットだし、自分はバイトしてちょっとずつ貯めたお金で買ったのだという訂正を受けた。それは申し訳のない間違いではある。
服装で軽んじられたのは気分の良いことではなかったが、口に出さなくても多かれ少なかれそれはあるのだから、口に出されただけ感謝するべきなのかもしれない。

魅惑のニッポン木版画

 横浜美術館で開催されている「魅惑のニッポン木版画」展が非常に良い展覧会だったので、少しでも観ようという人が増えれば良いな、と感想を書いていく。
 ここのところ私は浮世絵への関心を高めているものだから、それ以降の流れを俯瞰するものとしてのこういった展覧会が催されることを知って、とても惹かれたのだ。みなとみらいは近くはないけれど、それでも行くことにした。その期待を遥かに上回っていたから、行った甲斐があったというものだ。
 江戸末期から現代まで、約150年の歴史をぐっと濃縮して見せられて、その間の木版画というものの立ち位置や様式やの変遷の激しさには目が回りそうになったけれど、いずれの時期にしても創意に溢れた作品ばかりだった。個々の作品について語り始めるとキリがなくなるので、どう書き進めようか困っているのが正直なところだ。

 これだけたくさんの、浮世絵以外も含めた木版画を観る機会というのはそもそも少ない(町田には国際版画美術館があるけれど、そうでない美術館の展示としてこういった展示が企画されることとなると)。それでも特に、展覧会の意図としては次のような点があるように見えた。

  1. 木版画が日用品としても身近な存在であった時代と、基本的に美術品として制作されるようになった時代とを対比する。
  2. 主軸は日本に置きながらも、海外(といってもおもに西洋)との相互の影響を見せる。
  3. 比較的埋もれがちな立ち位置の作家たちを紹介する。

木版画の立ち位置の変化について

 同じ図案の複製をたくさん作ることができる錦絵が日用品の部類であったことは、広く知られている。そういった日用品としての木版画、千代紙やカルタなんかが序盤ではたくさん展示されていた。竹久夢二とか吉田亜代美の仕事をそういう江戸時代の日用品木版画の流れとして捉えようとしていたのも目を引いた。木版画は明治辺りまでは報道などにも使われていたし、小説の挿絵なんかにも木版画が使われていたりした。展示されていた小説の挿絵は驚愕するほかない技術的水準で、コピックで引いたみたいに細くて軽やかな線を実現している。
 けれども段々とほかの印刷技術に押されていって、木版画は一時下火になる。それから再興した木版画は基本的に、たくさんのコピーを作ることができる印刷手段というよりは、美術的な表現手段という観点から用いられることが多くなる。その結果として、木版画ならではの質感をより反映したものを作ろうという意図が覗くようになり、版画のすべての段階を作家が一手に担うようになるという変化が生じた。錦絵のような緻密さは見られなくなった一方で、べったりとした塗りや彫刻刀が作るソリッドな力強い線を活かした作品が多くなる(そういった変化だけで捉えるのは少し乱暴だけれど)。

日本の木版画と海外

 江戸時代の浮世絵の陰に隠れがちだけれど、明治時代にも優れた浮世絵師は何人もいる。彼らは文明開化で変わりゆく人々や街並みを捉えていて、その技法や画材に関しても、輸入したものを伝統の中に織り込んで新鮮な作品を制作している。
 また、浮世絵への憧れが昂じて日本にまではるばるやってきた西欧人たちもいた。錦絵の伝統的なスタイルを学び・実践した彼らの作品からは、このジャンルへの深い敬意が感じられる。
そして世界的な評価を得た戦後の作家たちによる作品。解説によれば「版画を日本画や油彩画よりも一段低い美術と見なしてきた日本の美術界にとっては、木版画が国際的な評価を受けたことは驚きであった」そうだ。浮世絵のときもそうじゃないか……。それにしてもこの展示室の作品は創造力の溢れる作品ばかりでゾクゾクさせられた。
 「ニッポンの木版画」という展覧会だけれど、そこに絞ったからこそ、逆にこういった国際的な関係が浮き上がってくるようになっており、面白かった。

木版画の埋もれがちな側面

 そもそも木版画というジャンル自体が少しマイナーな感は否めない。小学校の授業なんかで作った経験はあっても、作品を観る機会というのは案外と少ないのではないか。
 例えば先述の明治期の浮世絵師だとか、海外から来た絵師の作品などは、江戸時代のものに比べればぐっと知名度が落ちる。作品として見劣りするものではないのだけれど。 戦後の作家たちにしてもまだまだ知られていない人は多いし、そういった面にも光を当てるような展示になっていた。

現代の作家たち

 最後の展示室では比較的大きなスペースを使って四人の現役作家たちの作品が紹介されていた。
 いずれも優れた作家だと思ったけれど、桐月沙樹という人の作品に特に惹かれた(http://kirizukisaki.com/works.html#01から見ることができる)。一見すると木目をこういう風に利用するのはシンプルなアイデアな気もするけれど、でも見れば見るほど、木の模様と彫られた図柄との不思議な溶け合い方に引き込まれてしまった。

でも本当に言いたいのは、単に「興味深い展示だった」っていうだけじゃなくて、これらの木版画が本当に強く感情を揺さぶってきたり、感性への良い刺激を与えてくれたということだ。

歴史小説の史実との向き合い方

 先日読んだローラン・ビネの「HHhH――プラハ、1942年」(高橋啓訳)にはいたく感動した。その次に読み始めたのはレイナルド・アレナスの「めくるめく世界」(鼓直/杉山晃訳)だ。これまた強烈な作品で、いま半分くらいまで読んだところだが、非常に楽しめている。
 さて、たまたま同じ時期に買ったこの二冊には共通点が見える。それは、どちらも歴史小説であり、でも通常の歴史小説の語り口を取らなかった、ということだ。最初の三章ずつくらい両作品を読めばそれが判る(ただし私はどちらに関しても最初の一章を読んだだけで買ったので、買った時にはそれに気づかなかった)。

 「HHhH」が題材としているのはナチスの高官ハイドリヒの暗殺作戦だ。構成は、大抵の場合は二ページ以下に収まるくらいの短い章がたくさん連なったものになっている。基本的には「僕は」と語られる、つまり一人称視点だが、章によっては「僕」は出てこない。「僕」は資料を集め、友人と意見を交換し、読者に歴史を語って聴かせる。時々は語ることに没入しきって読み手の前から姿が消える(その没入度合は後半へと進むにつれて段々と高まっていく)……かと思えば、ふっと我に返ったように文章の中に姿を現す。
 例えば、ある章ではハイドリヒの幼年時代についてこのように書かれるが(この章で「僕」は顔を出さない)――

 だが、その夜、ヴァイオリンのレッスンはなく、ラインハルトは学校のことを父親に語ることさえできなかった。帰宅すると、戦争が始まったことを知らされる。
「なぜ戦争なの、パパ?」
「フランスとイギリスがドイツを妬んでいるからだよ」
「どうして妬んでいるの?」
「ドイツのほうが強いからだ」

――その次の章はこんな風に始まり、

 歴史物語においては、過去の死んだページに命を吹き込むという口実のもとに、多少なりとも直接的な証言に基づいて再現されるこうした会話ほど人工的なものはない。

そして次のように締めくくられる。

そして、誤解の無いように言い添えるなら、僕の創作する会話はどれも(そんなに多くはないけれど)芝居の一場面のようなものとなるだろう。いわば現実という大海に注ぐ様式の一滴。

 ここで抜き出したのは最もシニカルな箇所の一つだけれど、随所において章の間にはこのような落差がある。一見すると優柔不断ですらあるこの手法は、しかしながら、著者の誠実さと物語の真実性を読者に印象付けていく。そのようにして至る暗殺作戦の核心的な瞬間の数々は、とても力強い。

 「めくるめく世界」でレイナルド・アレナスが取った手法は更に挑戦的なものだ。この小説は実在した僧侶セルバンド・デ・ミエル師の生涯を描いたものだが、一人称(セルバンド師が語る)・二人称(セルバンド師に呼びかける)・三人称(セルバンド師について語る)によるテキストが混在している。場合によっては全く同じシーンが視点を変えて三度並んだりもする。ところどころでセルバンド師の手記が引用されもするが、幻覚のような文がひっきりなしに現れる。
 最初の章には次のような箇所がある。

司祭に家畜を祝福してもらって、祝福を受けると、家畜は死なないはずだが、どういうわけか死んでしまい、おまけに、母まで死んでしまった。

何て簡単に人が死ぬのだろう! しかし一頁めくればこう書かれている。

 というわけで、私はまたたく間に家に帰り着いたが、そこで待っていてドアを開けてくれた母――頭のてっぺんと両手の十本の指に、火のついたろうそくを立てていた――は、常夜灯のような口で、私に向かってこうわめいた。「さっさとお入り、この悪たれ小僧! さっき先生が来て、お前のことで苦情を言っていったよ。部屋にあがって、じっとしてなさい。今週はもう外に出さないからね」

この二箇所の間に「母」の生死に関しては何らの言及もない。これだけで混乱しそうになるが、この章が終わった直後には、同じ(と思われる)シーンの二人称視点での章が続く。抜き出すと、

 母親はあなたを、戸口で待ちかまえているに違いない。あなたは頭をしっかり押さえている。

 母親がやって来て、あなたの手首を切りとる。そして尋ねる。「誰が、ヤシの樹を引き抜いたの?」「やつだ」と歌っていないサソリたちが、赤っぽい石の下からのそのそ這いだしてきて、答える。

そして更に三人称視点で繰り返される。そこには次のような記述がある。

 というわけで、彼は学校にも通わなかったし、屋根をかすめて飛び去った一羽のゴイサギのあとも追わなかった。ゾウゲヤシの若木も引き抜かなかった。第一、あそこにはそんな樹は生えていない。妹たちにも会わなかった。彼女たちはまだ生まれていなかったのだから。むろん、切られた手首などという馬鹿なものを見たこともなかった……。すべては妄想、ただの妄想に過ぎない……。

 テキストの内容がおおよそ現実からかけ離れていることが明らかな一方で、もはやどこに歪曲があるのか判別がつかない。目の前で記述されているのが事実の歪曲としての小説世界において起きた事件なのか、小説内で起きた事件を述べるその文章に極端なレトリックが施されているのか、読者には全く判らない。対照的に、セルバンド師への熱い共感はくっきりと浮かび上がってくるのだけれど。何だかキュビスムで描かれた絵を眺めているかのような感じがする。

 「史実をどう物語として構成するか」そして「どのような視点から語るか」という歴史小説における(後者は小説一般にだけれど)問題に対して、この二作は個性的な方向から取り組んでいて、それが作品全体の力となっている――つまりは語られる人物、事件を読者に力強く見せつけることに成功している。これほど鮮烈な効果を上げている作品はなかなか無いように思う。歴史小説というジャンルに関して私はそれほど強い関心を持ってきたわけではないのだけれど、他にもこういったものがあれば読んでみたい。歴史小説の史実との向き合い方について、さらに考えを広げてくれるような作品を。

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

めくるめく世界 (文学の冒険シリーズ)

めくるめく世界 (文学の冒険シリーズ)

2014年4月、観たもの

アルバン・ベルク作曲オペラ「ヴォツェック新国立劇場

二十世紀を代表するオペラの一つ。二十五歳以下なら二人で五千円などという破格のプランを知らされたら行かざるを得まい。
何より素晴らしかったのはアンドレアス・クリーゲンブルクの演出! ステージ一面に水が張られ・室内の場面では宙づりになった部屋が前にせり出してくるというセットの特異さにまず圧倒された。観なかった人には「一面に水を張られた」舞台なんて想像がつかないのではないか。水それ自体は透明で無機質であるがゆえに、キャストたちが塗れ・光を照り返す水の質感や表情は美しく神秘的で、どこか恐ろしいものだった。オペラの場面設定自体は基本的には地上なので、言ってしまえば舞台に張られたこの水はある種の隠喩である。けれども、ヴォツェックの死の場面においてのみ、もっと直接的な意味に――つまりヴォツェックが沈んでいく池を表すものへと機能が転換する。オペラ全体を見渡してみれば、ヴォツェックの生きる世界(彼の生きる階級、とした方が良いのかもしれない)全体がその池へと(つまり狂気の末の死へと)連なっているのだ、というメッセージが立ち現れてくるだろう。
ヴォツェック」は狂気に陥る男の物語だけれども、それは作品自体が筋道だっておらず支離滅裂であることは意味しないはずだ。貧困に喘ぐ中で愛情すら失ったことを知ったヴォツェックが発狂することに逃げ道を見つけ出すのは、激しいものだとしても不思議な反応ではない――そういう風に、私はこのオペラからは現実的な感触を受けた。けれどもそういう風には感じない人だっているだろう。仮にこの作品がリアリティを備えていたとしても、それは誰にとってどんな意味を持つのだろう? 本当の貧困層はオペラなんか観ないだろうから。
http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/140405_001608.html

映画「アクト・オブ・キリング」

沸騰――とまで言うには話題にしている層は限定されていたとしても、かなり噂になっていた映画。概要を公式サイトから引用すると――

これが“悪の正体”なのか―――。60年代のインドネシアで密かに行われた100万人規模の大虐殺。その実行者たちは、驚くべきことに、いまも“国民的英雄”として楽しげに暮らしている。映画作家ジョシュア・オッペンハイマーは人権団体の依頼で虐殺の被害者を取材していたが、当局から被害者への接触を禁止され、対象を加害者に変更。彼らが嬉々として過去の行為を再現して見せたのをきっかけに、「では、あなたたち自身で、カメラの前で演じてみませんか」と持ちかけてみた。まるで映画スター気取りで、身振り手振りで殺人の様子を詳細に演じてみせる男たち。しかし、その再演は、彼らにある変化をもたらしていく…。

しかし、「ある変化」などと言うが、こんな書き方をされたらどういう変化が容易に推測がつくというものだろう。
思っていたよりもずっと気分が悪くなる映画だった。それは彼らのやったことに対して? もちろんそうだ、けどそれだけじゃない。同じくらいに残酷なことをやった人たちの話だって映画で観たことがあるけれど、その時よりも後味が悪い。その理由は「残酷さを知りたい」という残酷な欲求が、スクリーンに・映画館いっぱいに満ちていたことだ。
こんな制作手法を、過剰な好奇心の産物と呼ばずして何だろう。結果的に見ればカメラを回すことによってある種の断罪行為が行われたといえるかもしれない。けれど断罪しただけで何かが産まれたのだろうか。巨悪を為した人物がただの爺さんへと萎んでいく様が逐一このフィルムには収められている。それを観て私が覚えたのはただただ虚無感だった。
結局のところ、過剰な好奇心を抱いていたことに関しては、観る側も同様だ。わざわざ好き好んでこんな映画を観に行ったのだから。
「現実を知りたかったんだろう?」そんな製作者の声が聴こえてくるような気がした、ひどい自己嫌悪を植え付けられた。
http://www.aok-movie.com/

映画「アナと雪の女王

「アクト・オブ・キリング」であまりにげんなりしたので、口直しになるようなものを観たいと思って、三日後にはディズニーのアニメ映画を観に行くことにした。わかりやすいシナリオと楽しい音楽・とても美しいCGで出来た、口直しには持ってこいのハッピーな映画だった。
ミュージカル映画というのは歌が主体で進行する以上、シナリオの密度という点ではやっぱり遅れをとってしまう。同じディズニーでも去年公開された「シュガー・ラッシュ」のシナリオの巧妙さとは、比べる方が酷。逆にミュージカルの利点としては台詞をより詩的に扱えることで(「ミュージカルだから」という前提を観客が持つことで可能になる台詞というのはたくさんある)、だからそれを活かしてキャラクターへの共感を誘うというやり方が良いのだろう。Let It Go がばっちり流行ってるのは、エルサを多くの人に対して魅力的なキャラクターに見せることに成功しているということに通じている。
まあ、あんまり難しいことばっかり言いたい訳じゃないんだけどね、こういう映画に関して。こういう映画は楽しめない人なんだって思われたくないから。

「驚くべきリアル」東京都現代美術館

以下二つの現代美術館での展示に関しては本当は会期終了前にこの記事をアップしたかったけれど、そうできなかったのが残念。

スペイン・ラテンアメリカ現代アートということで、ラテンアメリカ文学を愛好している身としては興味を引かれるものがあった。――とはいえ実際のところ展示されていた作品の多様さを前にすると、「スペイン・ラテンアメリカ現代アート」というくくりで十把一絡げに語れるようなことはあまり多くは思い浮かばない。ただ、どこか人を食った発想(例えば架空の美術館のカタログを作ったり、自分を「オフィーリア」に見立てた写真を撮ったり)を感じる作品は多かったように思うし、ドライな感触も共通していたように思う。
どことなく閉塞感を感じさせる MP & MP ロサード(MP and MP Rosado)《野良犬のように》http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=viewphoto&id=429&c=8、夜景と星座との間に感じ取れるある種の類似から着想を得たカルロス・ガライコア(Carlos Garaicoa)《なぜ地はこんなにも自らを天に似せようとするのか(Ⅱ)》http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=viewphoto&id=429&c=6などが特に印象に残った。ホルヘ・マキ(Jorge Macchi)≪血の海(詩)≫は題になっている言葉が含まれる文を新聞から切り出して、広がる血のような形につないだもの。こういう作品を見るとやっぱり治安とかすごいんだろうなあと思わされる。ちょびちょびとスペイン語は勉強しているもののまだまだ全然わからない。作品中のテクストなどを理解できないのは歯がゆかった。

http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/musac.html

「MOTアニュアル 2014 フラグメント」東京都現代美術館

現代の日本の(基本的には若手あるいは中堅の)アーティストから何人かを取り上げるような展示を観た時に、全員が全員に対して興味を引かれるということは珍しい。けれどもこの展覧会はそうだった。

"断片"や"かけら"といった小さな破片を意味する言葉――「フラグメント」。本展に登場する作家たちは、彼らの身の回りにある現実からこぼれ落ちたフラグメントを用いて、独自の世界を築いていきます。市販のプラスチックのパーツを際限なく組み合わせる、トランプカードや消しゴムに緻密な細工を施す、見慣れた風景のイメージを切り取り多層化させる・・・・・作家たちの手法は様々ですが、いずれも世界に溢れる選択肢の中から自分だけのフラグメントを意識的に選び取り、それとの接触を通して世界を捉えなおそうとする姿勢に特徴があります。

というコンセプトの通り、日常とアートの境目を軽やかに超えていくような作品が多く、とても楽しめた。
特に面白いと感じたのは高田安規子・政子や福田尚代の作品。前者は軽石で建造物のミニチュアを作ったりゴムの吸盤を切り子状にしたり、日用品がこんなに姿を変えるのかとはっとさせられた。後者は本や文房具を断片化して再構成して作品にしていたが、言葉の与える印象と様々な方法で変質させられた紙の質感とが交差することで、内省的でありながら訴求力を持っていた。
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/mot2014.html

少し遅れての追悼文

ガボが死んでもうすぐ一月ほどになろうか。
彼との「つながり」といえば、彼の書いたものを――いくぶん熱心にとはいえ――読むというだけのことだ。これまでも、これからも、そこには変化がない。であれば滑稽ですらある感情だろうけれども、肉親が亡くなったようにどこか寂しいという気持ちがある。彼の小説を開いて読んでみても、昔とは何だか感じ方が違う。彼の次回作が読めなくなったことが寂しい? それに関しては私はそれほど期待していなかった。高齢であることと彼の執筆ペースを思えば、もう次の小説など無いだろうと思う方が自然であった。
彼は私にとって最も重大な作家だ。でもこれは 、彼の作品が私にとってはほかの作家の作品を絶して面白い、などといった意味でもないのである。
どう説明したら良いだろうか。ちょっと大げさに響くかもしれないが、彼は私の文学の先生なのだ。
彼の書いた小説は日本語訳のハードカバーなら9冊で収まる。そのそれぞれも別にドストエフスキートルストイほど弩級の長さではない。そのトータルのページ数だけを見れば、そのキャリアの長さや名声に比して少ないように感じられる。けれども、この作品リストはとても壮麗だ。
ガルシア=マルケスといえばマジックリアリズム、そう「百年の孤独」だ、「百年の孤独」を読め、「百年の孤独」を面白いと思わないやつはなんて感性が乏しいのだろう。――こんな風に言われることがある。私には違和感がある。彼のイメージが「百年の孤独」と「魔術的リアリズム」で固定されてしまうのは何と残念なことだろう? 「百年の孤独」が素晴らしい作品であり、「魔術的リアリズム」という言葉が彼の作風のある一面を表している、そのことに関して私は異論をはさまない。けれど、彼が語る世界はマコンドよりもはるかに広大だし、彼の語りの技法を一つのカテゴリーに収めてしまおうというのは無謀な試みに思える。
物語に相応しい構成と文章表現を与えることに彼は腐心した。結果的に非常にラディカルなやり方に至ったこともあるが、彼の作品の力強さはそこにある。
「予告された殺人の記録」において出来事が時系列順に並んで構成されていたら? この殺人事件と社会との間にある絶妙な関係があることは描き出されなかっただろう。「族長の秋」に通常の会話文が並べられていたら? 独裁者の孤独はそれほど鮮烈な印象を与えるものにはならなかっただろう。「百年の孤独」と同じ語り、構成であったなら、これらの作品は成功からほど遠いものだったに違いない。
あらゆる作品がそうなのだ。
すべて読んだからこそ私はそれを知ることができた。
そうしたことで、小説と言う形式が如何に広大な可能性を持っているのかを知れたし、だからきっとその未開の地の探索を試みた作家たちは他にもいるはずだと思えたし、そんな作家たちの作品を読み続けて私は今に至っている。
そのような意味において、ガルシア=マルケスは私にとって偉大でありまた同時に親しみ深い先生だ。先生の訃報に触れて私は悲しい。そして感謝の念は改めてこみあげてくる。

行った展覧会、2014年3月

書いてしまわないと忘れそうだったので、荒っぽいが書き留める。

プライベート・ユートピア ここだけの場所 ─ ブリティッシュ・カウンシル・コレクションにみる英国美術の現在 東京ステーションギャラリーにて

http://www.britishcouncil.jp/private-utopia/about
最終日に駆け込んできた。急いで観たこともあって正直に言うと結構印象が薄い。物語性の強い作品が多かったので駆け足で観るには向かない。

ザ・ビューティフル ─ 英国の唯美主義 1860-1900 三菱一号館美術館にて

http://mimt.jp/beautiful/
唯美主義というムーブメントがどういう背景で起きたのか、絵画だけでなく家具や装飾物デザインなどと共に見せてくれる丁寧な展示。
背景とはつまり大量生産された工業製品の氾濫した社会、とはいってももっと後の時代に生じる画一的なイメージというよりは、粗雑な造り・品質でデザイン的にも劣ったものが身の回りを満たしているという状況。そして唯美主義はそれに対するアンチテーゼ。反動として掲げられていた「美」というのは自然というか生命感、豊饒さ、そういったものへの指向を感じる。彼らの描く女性像はそれ以前の時代のものよりも実に表情などが蠱惑的に描かれており、率直に言うとその充満するエロティシズムに少し食傷気味になりもした。
ホームページのトップにも使われているアルバート・ムーアの大作「真夏」は非常に優れた作品で、これが掲げられた最後の展示室に来た瞬間に、この展覧会にも来た甲斐があった、と思わされた。

テート美術館の至宝 ラファエル前派展 英国ヴィクトリア朝絵画の夢 六本木ヒルズ 森アーツセンターギャラリーにて

http://prb2014.jp/
唯美主義展からはしごで行くことに(両方行くと相互割引制度で200円安くなる)。時代的にはこちらが先。引用元の神話や戯曲などがわからず悔しい思いをする作品が多い。こういう経験をするたびにもっと知識を深めようと思うのだが、なかなか達せられない。
ミレイの「オフィーリア」を筆頭に有名な作品がいくつも並んでいてなかなか見ごたえがある。彼らの写実性は写真かと見紛うほどですらあり、驚くばかり。空想上の光景もまるで見てきたかのように描かれている。それが行き過ぎているせいかこちらの想像力が掻き立てられないきらいすらある……。

日本美術院再興100年 特別展『世紀の日本画東京都美術館にて

http://www.tobikan.jp/exhibition/h25_inten.html
展示替えの前後とも観たかったが、伺えたのは後期のみ。流石に100年の歴史から選りすぐりの作品が並べられているだけあり、見ごたえがあった。
最初の展示室からして、狩野芳崖「慈母観音」や横山大観屈原」といった作品の威風に当てられた。一口に日本画と言っても時代ごとに様々な試みが為されていてとても面白い。

ミヒャエル・ボレマンス 「アドバンテージ」 原美術館にて

http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html(美術館全体のトップページ)
ボレマンスは存命中のベルギーの画家。とても堅実に描かれつつもささやかに現実との境界が薄れ非現実へと通じていくような絵画。手法的にはいささか前時代的に感じる面もあるが、作品からは新鮮な印象も与えられる。最終日ながら混雑していなかったことも手伝い、絵の中に流れる時間に入り込めるように楽しめた。